今日降る雪の (オール讀物新人賞最終候補作)
郁馬は訳がわからず、驚いて振り返った。
「殺したい衝動に駆られることがある。おれは、ほんとうにやってしまうかもしれん」
目が据わっていた。酔いのせいだけではなさそうだった。
「……海伊、なにを言っているのだ」
「夢にも見た。あれは正夢だ」
「誰のことだ」
「どいつもこいつもだ。とくに吉川金四郎、上杉頼母、山下助左衛門」
「皆、組合内の者か」
「吉川金四郎は長津藩。酒の飲み過ぎか不摂生か、いつも顔に吹き出物をつくっておる。上杉頼母は豊前戸倉藩。冷酷無比のいけ好かない男だ。山下助左衛門は相模小野原藩。組合の最古参で大先生と呼ばれている」
「組合の長までもがか」
「ある夜、助左衛門から急の呼び出しがあった。みなが芝の売茶亭という御留守居茶屋に集まっているのでおまえも来いと。こんな夜中何事かと駆けつけたら、なんのことはない、
いつものように飲んで騒いでいるだけだった。
そのまま翌日までとどまって飲み明かした。つぎの日の夕方まで居続けで、夜はまた河岸をかえて飲んだ。
明日は殿の登城で御先詰めしなければならないと訴えたが聞いてもらえない。だからといって、重大な議題があるでもなく、いつものくだらぬ話ばかりだ。
たまらず不満をもらすと、皆が口々に責めたて、口論になりそうになった。
その場は何とか収まったが、古株たちから、新参のくせに生意気だと、苛められるようになった。ことあるごとにおれを弄び、慰みごとにするのだ」
また、歌舞伎見物に行ったとき、あまりにも浅薄で誤った知識をふりかざし演劇論をぶつので正したら、知識をひけらかして得意面するなと盃を投げつけられたこともあるという。
数え上げればきりがない。
品川の妓楼に呼びだされ、すぐさま駕籠でかけつけたところ、遅いと叱責された。取るものもとりあえず駆けつけたと訴えると、「嘘を申せ、駕籠代を惜しんだのであろう。貧乏藩の留守居役の役立たずめが」と吉川金四郎に侮言を浴びせられた。さすがにそのときは、刀に手をかけそうになったと海伊は告白した。
「刀を抜けばただでは済まぬぞ」
「わかっている。だからこらえた」
「どうしてそんなことになったのだ」
「そもそも新参は虫けら同様の扱いで、先達からいじめの洗礼を受けることになっているらしい。その上、おれは組合の連中から嫌われている。あまりにも正論を吐いて人に折れないところが、皆おもしろくないようだから気をつけろと、稲垣藩の依田謙之亮から忠告を受けたことがある」
「なにか手だてはないのか。たとえば上の者に訴えるとか」
「他藩の江戸留守居役を誹謗するわけにはいかぬ。組合内の悶着ではなく、藩と藩との紛争になりかねない」
海伊の言う通りかもしれなかった。おおやけに訴えれば、事が大きくなって、藩同士の関係を円滑にするための組合が、かえって障壁となってしまうかもしれない。
「たとえ訴えても、それが組合の習いなら甘受するのが道理と言われて終わりだ」
救いの手を差し伸べたくても、浪人者の無力な自分に出来ることは何もなかった。
「頑張れ」の言葉など、かえって苦しめることになるだけだろう。郁馬は
助言どころか、励ますことばさえ見つからなかった。
そのとき、ふと思い浮かんだ詩句が口をついて出ていた。海伊が郁馬に餞の言葉として贈ってくれた大伴家持の短歌である。
「新しき年の始の初春の、今日降る雪のいや重け吉事」
「そうだな。それを励みのことばとして今は堪え忍ぼう」
郁馬は微笑み無言で友の盃に酒を注いだ。
胸のなかではまだ必死に励ましの言葉を探していたのだが、見つからなかったのだ。
その日の花見酒は、苦い、苦い酒となった。
海伊が死んだと報せがあったのは、秋の気配が色濃くなりはじめた頃のことである。
雪乃から報せがあって急いで駆けつけると、暗い座敷にのべられた布団に、すでに亡骸となった海伊が横たわっていた。
かたわらに寄り添うように座る雪乃はむせび泣くばかりで、なにを訊ねてもまともに答えられない有り様だった。かわりに下男の老人が語った。
浅草花川戸の料理茶屋で留守居役の寄合があり、例によって飲めない酒をよってたかって飲まされ、助左衛門たちからさんざん侮辱を受けた。
そのとき、海伊のなにかがぷつんと切れた。
勘弁ならぬ、もはや我慢もこれまでと脇差しを抜き助左衛門に斬りかかった。
しかし、上杉頼母が脇差しを鞘がらみに抜き上げ、その刀を叩き落とし、まわりの者が取り押さえた。
依田謙之亮と笠原飯山が別室へ連れて行こうとしたのだが、廊下に出たところで暴れだし、わけのわからぬ雄叫びをあげて飛び出して行ってしまった。
そのまま海伊は吾妻橋の欄干を乗り越え、大川に身を投げてしまったのだった。追いかけていった依田たちも止める間がなかったという。
騒ぎを聞きつけて出てきた近所の町人たちによってまもなく引き上げられたが、すでに息絶えて甦ることはなかった。したたか酒を飲んでいたため、あっけなく溺れ死んでしまったようだった。
取り急ぎ依田謙之亮と笠原飯山が美月藩邸に走って家老と面談し、事件を内分に済ますよう進言した。しかし、届け出の遅れなど不手際が重なり、大友家の親類から病死の届け出が提出されたときにはすでに手遅れだった。
事件は露見し、大友家は取り潰しとなった。
海伊は、郁馬の前で「殺してしまうかもしれん」と口走ったあの日から半年もの間、ひとり奥歯を噛みしめ堪え忍んだのだった。
雪乃は実家の兄のもとに戻った。
海伊が身投げをしてひと月も経たぬころ、さらなる悲報が届いた。雪乃が夫のあとを追って自害したのだ。かつて暮らした屋敷に忍び入り、仏間で喉を突いて果てたのだった。
傍らには兄二人に宛てた遺書があり、雪乃はその中で、苦悶のなかにある夫の力になれなかったこと、救えなかったみずからの不徳を責めていた。
遺書の最後の一文を目にしたとき、郁馬の胸は締め付けられた。
「覚えておいでですか? いつか金魚の梅が死んで打ちひしがれていたとき、兄様は梅の真似をして笑わせて下さいました。あのとき、兄様の妹に生まれて
ほんとうに幸せ者だとあらためて感慨したものでした。兄様は、命は何度も死んで何度も生き返るとおっしゃいましたが、生まれ変わって海伊様とふたたび会えるのはいつの日のことなのでしょうか。せっかちなわたしにはとても待ち切れません。今すぐ会いとうございます。いつも海伊様のおそばにいたいのです」
雪乃にとって海伊は、最愛の人であり生き甲斐であり、すべてだったのだ。 いつも寄り添い、愛する人の魂のぬくもりを、魂で感じていたいのだ。
おれは、あそこまで追い込まれもがき苦しんでいた海伊を前にして、なぜゆえ救おうとしなかったのか。結果として、雪乃までも死に追いやってしまった。
おれはあのとき何としても海伊を救うべきだった。
郁馬はなんども自分を責めた。それは、永遠に癒えない深い疵となって苛んだ。
郁馬は、海伊をいじめ抜いた留守居たちの動向を探りはじめた。いつどこに現れるか。間違いなく仕留められるまたとない機会はいつ、どこか。
四
作品名:今日降る雪の (オール讀物新人賞最終候補作) 作家名:加藤竜士