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今日降る雪の (オール讀物新人賞最終候補作)

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 亜弥にぞっこんだった婿は、それがわかって、泣く泣く離縁したのだ」
「前のお婿さんは、情夫と別れろといわなかったのですか?」
「別れてくれと懇願したんだそうだ。亜弥は別れますと約束したが、はじめからその気はなく、不義をつづけた」
「まあ……」
「おれは、もともと女房にも舅にも商いにも嫌気がさしていたからな、さっさと別れることにした」
 雪乃は、畳の上に置かれている刀にあらためて気づいて聞いた。
「この刀は?」
「償い金(慰謝料)だ」
 妻の不義密通は、その場で斬り捨てても罪に問われないが、町人の場合、そうもいかず、示談で済ませることが多かった。
「一文字屋が店に置いているのは無銘の数打ちばかりだが、そうでないものを一振り、蔵の奥で見つけた。舅が後生大事に隠し持っていたのだ。そいつを
償い金の代わりだといって頂戴してきた」
「お値打ち物なのですか?」
「大和守安定の業物だぞ。切れ味は申し分なし」
 にやりと笑って雪乃を見た。
 不義密通の示談金は七両二分が世間の相場らしいが、その刀はその何倍かの価値があるらしかった。
「兄様は、武士にもどるのですか?」
「さあな」
 郁馬の答えは曖昧だった。
 着流しに総髪の今の郁馬はいかにも浪人者で、一文字屋にいたころの商人の面影は片鱗も残ってはいなかった。
「そのお歳で独り身になられるとは……」
 雪乃はいかにも切なそうにうなだれた。
「なあに、嘆くほどのことではない。江戸では、死ぬまで妻を持てない男も掃いて捨てるほどいる」
「それはそうですが……」
 まだ何か言われそうなので、郁馬は話を変えた。
「そういえば海伊と長く会っておらぬ。息災か」
「はい……」
 今から一年ほど前、海伊は美月藩の江戸留守居役を拝命した。中小姓にあがってわずか三年目のことで、異例の出世といえた。
 これまでにも何度か会おうと誘ったが、いつも断られていた。
 江戸留守居役とはそれほど多忙なものなのかと呆れたし、親友と会うわずかな時間もつくれないのかと、いささか臍を曲げてもいたのだった。
 目を落とし言いよどむ雪乃を見て、郁馬は聞いた。
「なにかあったか」
「ちかごろ、ご様子がおかしいのです。ふさぎ込んだり、不機嫌だったり」
「なにかあったのか」
「何も話してくれません……。それがわたくしは悲しくて、寂しくて」
「男には、女には話せないこともある」
「わたくしは妻ですよ。それなのに、なんの力にもなれないのです」
 抑えていた気持ちが噴き出したのか、雪乃はうっと声を漏らし目頭を押さえた。
「わかった、おれが話してみよう。なにかできることがあるかもしれない」
「お願いできますか?」
「うむ」
「どうか海伊様の力になってさしあげてください。わたくしも辛うございます」
「二十年来の親友だ。任せておけ」
「お願い致します」
「おれに会えば、元気を取り戻すさ」
 安心させるためにそう言ったが、胸の曇りはますます広がるばかりだった。


 川面をわたる春の風が、桜の花びらを雪のように舞い散らした。
 湯呑みを手にしていた海伊は、盃に落ちたひとひらの花びらを見やって、花びらごとぐいっと飲み干した。
 汐留川の川辺に座り、郁馬と海伊は花見酒を楽しんでいた。
 海伊が、雪乃から言づてを聞いて、早速善右衛門町の裏店を訪ねてきたのだ。
「おまえと飲もうと思ってな」
 久方ぶりに見る友の姿だった。戸口に立ち、春の日を背にして部屋を覗くその顔からは、心配していたような暗さはうかがえなかった。
 雪乃に持たされたという提重を開けると、初重には若鮎、鮑のかまぼこ、竹の子とわらびなど旬のものが、二重には桜鯛の押し寿司、蒸しがれい、三重には平目やサヨリの刺身と贅を尽くした料理が詰められてあった。
「これはまた豪勢な。雪乃が?」
「二人で食せと」
「こんな料理、嫁に行くまえはつくったことがなかったぞ」
 提重には、徳利も二本入っている。
「酒はたっぷりある」
 海伊がそういって持参の一升徳利をどんと置いた。
「そうだ」郁馬は思いついて言った。「すぐそこの川っぷちに桜が一本だけ咲いている。いま満開だから、そこで花見酒といこうではないか」
 そうして、ふたりは汐留川の大きな桜の木の下で飲むこととなったのだった。
「これからどうするのだ」海伊が訊いた。「おまえが離縁して一文字屋を出たと聞いたときには、驚いたぞ」
「あらたに商いをはじめるほどの財力も無し、さりとて兄のところにもどるわけにもいかず、とりあえず、浪々の身ということか」
「どうやって食ってゆく」
「以前より顔見知りの御旗本がおってな、そちらの屋敷で子弟に剣術の稽古をつけることになった。それとは別に、存じ寄りの武家に出稽古の口利きをしてくださった。それでしばらくは食いつなげるだろう」
 久しぶりの再会で、昔話に花が咲き、楽しい酒となった。
 立て続けに湯呑み酒を呷る海伊を見て、
「ずいぶん飲めるようになったな」
 驚いて言った。
「鍛えられた。否でも応でも飲まされるのだ」
「だれに?」
「江戸留守居組合のお偉方たちに」
「なにかと大変そうだの」
「おれのような新参は、宴がはじまると、出席者全員を回って盃を頂戴するのがしきたりだ。しかし、酒が飲めないおれは、早くも二人目あたりで辛くなってくる。
 それを見て芸者が酌をする振りだけして助けてくれることもある。それでも、飲む量はかなりのものだ。吐いては飲み、吐いては飲みしていれば、いやがうえでも強くなるさ」
「おれが言うのもなんだが、飲み過ぎは身体に毒だぞ」
「これも仕事だ。いたしかたない」
 海伊はよほど鍛えられたらしく、以前とは別人のように飲んだが、話すことも呂律が乱れることもなかった。
「留守居の寄合に列席する者はおおむね羽織袴の略装だが、新参にかぎっては麻上下紋付と決められている」
 あまりのばかばかしさに、郁馬は思わず失笑をもらした。
「しかも、酒を受けるときは、天子から賜るように盃を掲げもち、頭を深々と下げろというんだ。下らんことこの上ない」
「新参はなにかと難儀だの」
 幕府諸役所や藩の役所で新参の教育指導にあたる師匠番とよばれる上司は、それを口実に、新参に無理難題を吹きかけ、饗応など無益な失費を強いるだけでなく、傲慢不遜な態度で痛めつける。よくある話である。
 しかし、留守居組合の新参が受ける虐めは、そんな生やさしいものではない。
 留守居組合の古参の権威はまさに絶対的で、その関係は主人と下僕同様で、病的なまでに執拗で陰湿で度を越していると海伊は嘆息した。
「そもそも」と海伊は言った。「留守居の寄合そのものが、くだらんのだ。藩の運営を円滑に図るために、幕府との調整や情報交換をするのが本来の主眼なのだが、席上でそんな話は出たことがない。芝居見物や相撲見物、ときには吉原に繰り出す行楽遊興の集まりだ。料理茶屋の集まりでも、花魁の品評など、話題は公務どころか知性教養からも縁遠い低俗なことばかりだ」
 学者肌で生真面目な海伊には堪えがたいのかも知れなかった。
 さすがに酔いがまわってきたのか、急にうつむいて黙り込んだ。
「殺してしまうかもしれん」
 海伊が沈黙を破って唐突に口走った。