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今日降る雪の (オール讀物新人賞最終候補作)

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 先日の雪がまだ溶けきらず残っている坂道に、明け方から降り出した新たな雪が路面を白く染めはじめた。
 門の扉が開き、警護の侍たちに囲まれて、網代漆塗りの乗物が神楽坂の表通りに出てきた。皆の吐く息が白い。
 待ちかまえていたのだろう、行列の前に飛び出し、雪の坂道にひれ伏した者がある。痩身だが堅固そうな体つきの浪人者である。
「お願い申す!」
 乗物が止まり、警護の侍たちが、だっと前に出て立ちはだかり、刀の柄に手をかけた。警護を四人もつけるなど、厳しい警備を敷いているのがわかる。
 ひれ伏した浪人は、それでもなお大音声でつづけた。
「小野原藩御留守居役、山下助左衛門様の乗物とお見受け致す。どうか、それがしの願いをお聞き入れくだされ。どうか!」
 黒と弁柄色(べんがらいろ)の豪華な乗物の引き戸は閉じたままである。
「おまえか」警護の頭らしき男がひれ伏す浪人者を見下ろして侮蔑の表情を浮かべた。「先刻も申したであろう。不浄役人の身内の者など雇い入れる気はない。ただちに立ち去れ」
 それでも浪人者はかまわず、乗物に向かって語りかけた。
「こちらのお方に取り次ぎを願いましたが、叶えていただけず、やむなくこうして推参つかまつった。ご無礼は平にご容赦を」
「吉田、どういうことだ」
 助左衛門に問われ、吉田と呼ばれた警護の頭が乗物に歩み寄って声を返した。
「先刻、あの者が当屋敷に参りまして、召し抱え願いたいと」
「このご時世に仕官願いと?」
「は。まったくの笑止。どこやらの免許取りで剣の腕は折り紙付きであるから、是非とも殿の警護隊に加えてほしいと」
 ふんと鼻で嗤う声をもらして、助左衛門は「行け」と命じた。
 ひれ伏す浪人をよけて乗物が進みはじめた。
 それでもあきらめず、浪人は助左衛門に大声で訴える。
「拙者、北町奉行与力川島圭吾の弟で川島次郎之助と申す。浪々の身にて、たびたび兄の用命を受けて探索の手伝いをしております。こたびは長津藩の御留守居役、吉川金四郎様の一件について」
「待て」
 助左衛門の声で駕籠者たちが乗物を止めた。
 次郎之助がつづける。
「拙者、下手人を突き止めました」
 引き戸が薄く開いて、助左衛門が半分だけ顔を覗かせた。
「下手人を?」
「はい。拙者の探索に手抜かりはございません。相違なく」
「下手人は誰だ」
「後藤郁馬という浪人者にございます」
「なぜ、その者が?」
「大友海伊殿の幼なじみで二十年来の友にございます。つまり、盟友の敵討ちということでございましょう」
「浪人者か」
「神田鍛冶町の道場に乗り込み戸倉藩御留守居役上杉頼母様を打ち殺したのも、その男にございます」
「なに? 頼母殿も?」
「左様に」
 剣術の他流試合で命を落としたと聞いていた助左衛門は、新たに知った事実に内心慄いた。
「頼母様は中居道場の本目録を受けており、師範代も務めた名うての剣豪。それを破るなど、桁外れの強さでございます。次に後藤郁馬が狙うのは、山下助左衛門様、あなた様でございましょう。そうしないと友の仇討ちは完結しないからでございます。もし郁馬が襲ってきたとき、返り討ちにできるのはそれがし以外におり申さん。御身のためにも、何卒お召し抱えを」
「近う」
 助左衛門があたりを憚って手招きする。
 警護の者たちが気構えて阻もうとしたが、助左衛門が、彼らを追い払うように閉じた扇子を振った。
 次郎之助が立ち上がり、会釈して乗物に近づく。
「仇討ちがわしで完結するとはどういう意味じゃ」
「江戸留守居役組合の方々がよってたかって海伊殿をいたぶり、虐め抜いたという事実を突き止めました。よって、海伊は自害するにいたったのです。とりわけ山下助左衛門様、上杉頼母様、吉川金四郎様の虐めは目に余るものがあったと聞きおよびます。狙われて当然至極」
 ぶしつけな言い方に、助左衛門は不快を露わにして次郎之助を見た。
 それを睨み返して、次郎之助が、
「それは、海伊をなぶり殺しにしたとなんら変わるところがありませんぞ。大先生」低い声で囁きかけた。「人をいたぶり、なぶり、虐めて弄ぶなど、
武士のすることか。お主、武士としての矜持は持ち合わせていないようだの」
「なにぃ!」
 そのとき、次郎之助の脇差しが鞘走った。
 助左衛門の喉に脇差しが深く突き込まれた。
「何を隠そう、おれがその後藤郁馬だ」
 突き込んだ脇差しをぐいとねじり、えぐり上げて刀身を抜いた。
 鮮血がほとばしり、助左衛門の鮫小紋の羽織と仙台平の袴を濡らした。
 大量の返り血を浴びた郁馬が脇差しを捨てて向き直り、太刀を抜いて仁王立ちになった。
 一瞬、何が起こったかわからず立ちつくしていた警護の者たちが我に返り、いっせいに抜刀した。
「斬れ、斬れ!」
 警護頭の怒号が飛んだ。
 斬りこんできた一人目を袈裟懸けに斬り下げ、二人目を横に薙いで飛び、だっと走り出し、警護頭に斬りかかっていった。
 郁馬の心に、あの歌が、くり返しくり返し聞こえていた。
「新しき年の始の初春の 今日降る雪の いや重け吉事」
 わかっている、友よ、それはおまえが愛した大伴家持とかいう歌人の歌だ。
 だが、絶望の淵にあったときも、おまえはこの歌のように明日に明るい望みを見ることができたのだろうか。
 おまえの無念を晴らさんとおれは働きはじめたが、この先、吉事が雪のように降り積もることなど決してないだろう。
 雪が激しくなってきた。
 警護の四人はつぎつぎと討ち倒され、ある者は息絶え、ある者は深傷を負って雪の上でうめき声を上げながらのたうち回っていた。道の端に逃げた駕籠者や供揃いの者たちが震えながら凝視している。
 郁馬は踵を返し、血濡れた大和守安定を右手にだらりとさげたまま、降りしきる雪の坂道をゆっくりと下っていった。
 ぐらりと傾いて雪の上に膝をついたが、すぐに立ち上がり、ふたたび歩き出した。
 総身に深傷を負っていた。からだがよろめき、視界が揺れ、霞む。左脇腹から流れ出る鮮血が袴を重く濡らし、歩をすすめるたびに、雪の上に点々と真紅の跡を残してゆく。
 おれは死なぬぞ。死が怖いのではない。命にしがみついているのでもない。おれは海伊と雪乃のために義を通したのだ。死ねば義が廃る。海伊と雪乃が嘆き悲しむ。
 だから、何があっても死ぬわけにはいかぬ。
 雪乃、黄泉(よみ)の国では海伊と会えたか。この降りしきる雪のように、これから黄泉の国で寄り添い生きてゆくことが、おまえにとって何よりの吉事なのかもしれない。
 海伊、雪乃を頼む。幸せに暮らせ。
 雪乃、生まれ変わって現世にもどってくるときは、またおれの妹に生まれてこい。
 海伊、ふたたび無二の友として友誼をあたためようではないか。こんどは、ともに老いさらばえるまで。
 ぐらっと郁馬の身体が揺れ、沈むように崩れ落ちると、白く覆われた坂道を、ゆっくりと転がっていった。
 降りつのる雪が、江戸の町を音もなく白一色に塗り染めて行く。

                               了