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今日降る雪の (オール讀物新人賞最終候補作)

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 自分でも信じているわけではなかったし、金魚も生まれ変わりを繰り返すのかどうかわからなかったが、雪乃を元気づけるためにやっとの思いで絞り出した知恵だった。
「ほら、梅が生き返った」
 顔の前と尻に手のひらを当ててひらひらさせ、金魚のまねをして動き回った。
 その滑稽さに、雪乃ははははと無邪気な笑い声を上げた。
「元気を出せ。梅にはまた会える」
 雪乃が郁馬を見て重大事のようにいった。
「雪乃は、兄様の妹に生まれてまことに幸せです」
 そんな妹が今、二十五になった。そして、愛する夫のもとで安らぎに満ちた日々を送っている。その幸せそうな姿を見ると、郁馬は安堵につつまれ、思わず笑みをこぼしてしまうのだった。
「つい先だって、御家老の平山様から召しあげがあって、お屋敷にあがった」海伊が突然切り出した。「中小姓として召し出すと言われた」
「海伊が中小姓だと?」
「うむ。殿から直々の御下知だそうだ」
「いったいどういうことだ」
 老中を務める藩主の栗田成篤が幕臣の相沢政智と雑談をしていて、たまたま成篤の家中のことに話がおよんだ。
「公の御家中の大友海伊なる者は、すこぶる文名が高いと聞きますが、今はどの役職にある者で?」
 と聞かれ、成篤はその名を知らなかったので、さっそく屋敷にもどって家老の平山重久に尋ねた。
「おお、その者なら、ただいま当家におります」
 海伊は二十歳の頃から重久家に寄寓して子弟の教育にあたっていた。海伊の師でもある藤井宗庵が重久と親しく、藤井の推挙で教育係に入ったのである。
 重久は姓名事歴人柄を詳しく報告した。成篤は、海伊を中小姓として召し出し、三十俵三人扶持を給した。
「そりゃめでたい。青天の霹靂(へきれき)とはこのことだ」郁馬は自分のことのように嬉しかった。「そうなると、いずれは美月藩の家老ということか」
「出世は望みではない。和歌や学問の道を目指したかったのだ」
 海伊はこの栄えある異例の抜擢を、心から喜んではいないようだった。
 郁馬には理解しがたいが、海伊はもともと学者肌で、二六時中書物と向き合い、あるいは人やこの世の真理に意想めぐらすのが好きなのだ。
 海伊が聞いてきた。
「そっちのほうは近頃どうなのだ」
「んー」
 郁馬は曖昧に頷き、言葉を呑んだ。
「なにか厄介ごとでも?」
「いや、そうではないのだが……」
 郁馬は十九の時、日本橋村松町の刀屋に婿に入った。武士を捨てて町人になったのである。身を落としたとは思わなかった。この先厄介者となって朽ちてゆくよりは家を出た方が良かったし、藩の下役である後藤家にはいつまでも次男を置いておく余裕もない。
 嫁の亜弥は家付き娘だが、郁馬より二歳年上で前にも婿を取っていた。
 婿がよそに女をつくって家に帰らず、商いにも不熱心だったので離縁したということだった。
 娘が傷物とはいえ、剣術しか取り得がない郁馬には、縁談があっただけでも幸運といえた。店主である父親が、仕事を覚えたらすぐに隠居して郁馬に跡を継がせると確約した。
「商いはつまらん」
 郁馬が言った。
「性に合わぬか」
「まあ、そうだ。竹刀を振り回しているほうがどれほど楽しいか」
「おまえらしい」
 海伊は笑った。
 正直に言うと、心を重くしているのはそれだけではなかった。
 婿入りしてみれば、刀屋「一文字屋」が扱っているのは数打物とか束刀などといわれるものだった。目利きなどできなくてもわかる鈍刀である。
 客は、暮らしに貧して先祖伝来の業物を売り払い、代わりに竹光というわけにもいかないので、駄物を買い求めにくる浪人たちだった。
 女房の亜弥に対しても、情が湧いてこかなかった。面立ちが整い清楚な印象だが、実際に暮らしてみると、口の利き方がはすっぱで、男ならだれにでも狎れ狎れしくするふしだらさのようなものが、いちいち気持ちを逆なでするのだった。
「何もかも面白くないのだ」
 郁馬は心の奥にしまい込んでいたものを吐きだした。
 真の友には、強がりも虚栄も取り払ってしまおうと思った。
 それを聞いて、無言で白い月を見あげていた海伊が口を開いた。
「新しき 年の始の初春の 今日降る雪の いや重け吉事」
「……なんだ、いきなり」
「大伴家持の歌だ」海伊は言った。「万葉集四千五百首の最後に収められている」
「どういう意味だ」
「今降りしきる雪のように、いいこともますますわが身に降り積もりますように」
 郁馬は海伊の意図がわからず、黙ってつぎの言葉を待った。
「そのころ、大伴家持は重職を解かれ、万葉集の編纂に関わることも叶わず、左遷先の因幡国で失意のどん底にあった。そんななかで詠んだ短歌だ。辛いときこそ、吉事を待とうと」
「どん底にあれば、あとは昇るしかないということか」
「……すこし違う気がするが……ま、それでもいい」
「新しき年の始の初春の、今日降る雪のいや重け吉事、か」
「その短歌をおまえに贈ろう」
 そういって笑みを向け、持っていた茶飲みを乾杯でもするように掲げた。
 あとで知ったことだが、この歌が詠まれた奈良の時代、正月の大雪は豊年を知らせる吉祥とされていた。降りしきる新年の雪を前に、家持は心から願いを込めてこの歌を詠んだのだった。
「来年の正月は雪が降るといいな」
 海伊が遠くを見て言った。
「そうだな」
 顔を見合わせ、二人は静かに笑った。
 それから時は流れ、年が明けて正月を迎えたが、雪は降らなかった。
 その後の二人の行く手にはさまざまな試練が待ち受けていた。
 翻弄され、もがき苦しんだ。だから、三十歳を迎えるまでの四年間は、かれらにとって長くもあり、また短くもあった。
 運命の荒波に呑み込まれ、混沌と暗澹の中で針路を見失いかけた二人は、本意とは異なる方向へ舵を切ってしまったことに、そのときまだ気づいていなかった。


「兄様、おいでですか?」
 女の声がして腰高障子が開いた。妹の雪乃だった。
 戸口に立ち、おどおどした落ち着かない目で薄暗い部屋を覗き込んだ。
「おう、入れ」
 刀の手入れをしていた郁馬は鞘にもどすと、声を返した。
 おずおずと足を踏み入れた雪乃は、手みやげらしい風呂敷包みを抱いたまま、九尺二間の狭い部屋を見回した。
 郁馬が移ってきた愛宕下善右衛門町の裏長屋は、古びていてみすぼらしかった。
「いったい、どういうことなのです? 海伊様もいたく心配なさっていましたよ」
「手紙に書いた通りだ。離縁したのだ」
「どうしてまた……」
 そのことも手紙に書いたはずだが、雪乃はいまだに信じられないようすだった。
「いつまでそこに立っている。あがれ」
 雪乃があがって座ると、郁馬は火桶から鉄瓶をとって茶を淹れながら話し始めた。
「亜弥に男がいたのだ。どこの馬の骨ともわからぬ遊び人で、おれが婿入りするまえからだった」
「あの亜弥さんが?」
「ああ、十五のときからというから、前の亭主を婿に入れたときもおれのときも、その男と手が切れていなかった」
「情夫がいて、その方と密会をかさねながら、二度も婿を取ったのですか?」
「そうだ。聞かされていた話とはまったく逆で、前の婿は真面目で働き者で、よそに女をつくるなどとんでもない。不義密通をしていたのは女房のほうだった。