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今日降る雪の (オール讀物新人賞最終候補作)

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 もじもじしていると、どこかから声がした。
「いけません!」
 堀端の、生い茂っている葦叢の陰から一人の子供が出てきた。
 齢は郁馬とおなじくらいだろうか、色白でひ弱な印象の男の子だった。
 その男の子が言った。
「弱い者いじめはいけないことです。だめです」
 まだ十歳の子供の口から出た言葉に、兄弟子たちは気色ばんだ。
「なにい……」
「あちらで本を読んでいましたが、あまりに騒がしいので勉学になりません。ぜんぶ聞こえてしまいました。その子は全然悪くありません。
 皆さんのやっていることは弱い者いじめです。今すぐやめないといけません。人に難癖をつけていびるなんて破落戸のやることです。
武士にあるまじき恥ずべきことです」
 言っていることは勇ましいが、声が上ずってかすかに震え、顔面は蒼白だった。
「餓鬼が生意気な!」
 新吾が手にしていた竹刀の入っている竹刀袋で殴りつけた。
「やめて!」
 郁馬が後ろから新吾にしがみついた。
「うるさい!」
 ふりほどき、こんどは郁馬を殴る。
「だめ!」
 少年が止めようとして飛びつき、突き飛ばされ、殴られる。
 子分たちも加わって、郁馬たちを小突き回し、殴り、蹴りつける。
 さんざんやって飽きたのか、
「腹が減った。どこかで団子でも食って行こう」
 新吾が言い、皆と防具袋を持って歩き去った。
 泥にまみれ、堀端の湿った地面に倒れたまま、郁馬は惨めさに打ちのめされていた。
 うずくまっていた少年が半身を起こし、全身をまさぐりながら声を漏らした。
「痛い……」
「こうなることはわかっていただろ? 出てこなければ良かったのに」
「裸になれって言われたとき、どうして嫌だって言わなかったの?」
「目上の人だぞ、口答えはできないよ」
 怖いからだとはいえなかった。
 言えば、自分が意気地無しだと認めることになってしまう。
「間違っていることには間違っているって言っていいと思う。相手がどんなに強い人でも偉い人でも、立ち向かっていかなきゃいけないと思う」
「怖くないの?」
「怖いよ、だけど、がんばって言ってみた」
 あのとき少年は声が震え、血の気が引いていたことを郁馬は思い出した。この子も怖かったのだ。しかし、勇気を出して立ち向かっていった。
「それで、二人ともこんなになっちゃった」
 相手は泥だらけの郁馬を見て、「ふふっ」と声を漏らした。
 二人は笑いだした。腹の底から笑いが噴きあげてきて、大声を上げていつまでも笑った。
 それがふたりの出会いだった。相手の少年は大友大二郎、のちの
大友海伊である。
 話すうち、たまたまおなじ美月藩の子で、齢もおなじだとわかった。しかも、ふたりとも二男坊だった。
 大友家に生まれた大二郎は、幼い頃から学問が好きで、藩校の経書の素読だけでは飽きたらず、藤井宗庵という国学者の私塾にも通っていた。
 私塾は日比野道場とおなじ日本橋松島町にあり、郁馬と出会ったその日も、塾からの帰りだったのだ。
 この日をきっかけに二人は急速に親しくなっていった。
 跡目を継いだ大二郎の兄はそのとき大小姓頭で、いずれ執政に上がると思われた。一方、郁馬の父親は勘定方の下役だったから家格も住まいも違うが、
大二郎はそれを鼻にかけることなく、親しく接してくれた。
 いつも勉強ばかりで家に引きごもりがちの大二郎を魚釣り、虫取り、凧揚げ、竹馬遊びとおもてに連れ出した。ふたりはよく遊び、語り、よく笑った。
「生真面目で笑顔など見せたことのない大二郎さんが、よく笑うようになりました」
 と大二郎の兄嫁にこっそり感謝のことばをかけられたこともあった。
 大二郎も郁馬の家をたびたび訪れるようになった。
 三歳年下の妹の雪乃は引っ込み思案で人見知りなのだが、なぜか大二郎と会ったときだけは隠れることはなかった。
 話しかけてくる大二郎に、はにかみながらも訥々と答える妹の姿は、いじらしく愛らしかった。
 いじめにあってふさぎがちだった郁馬も、本来の闊達さを取り戻してきた。
 いじめっ子たちとの確執はつづいていたが、毅然と対応するようになった。理不尽な要求や誹謗には口舌で言い負かし、暴力を振るわれそうになったときには手向かう姿勢を見せた。
 思わぬ抵抗に彼らは当惑し、そのうちなにも言わなくなった。
 すべては大二郎がくれた勇気のおかげだと郁馬は感じていたし、感謝していた。
 こうして、二人は真の友として友情を育んでいったのだった。


 秋の頃だったと思う。
 暗い空に白い月がぼんやりと浮かんでいた。
 二十六歳になった郁馬と海伊は海伊の家の濡れ縁で静かに酒を酌み交わしていた。数か月ぶりの再会だった。
 二十歳を過ぎるとなにかと世事にとらわれ、子供の頃のように頻繁に会うことはなくなっていた。
 酒を酌み交わすとはいえ、海伊は妻女が気を利かせて持ってきた茶にすぐに手を伸ばした。酒が身体に合わないのか、猪口一杯で真っ赤になり、のぼせて
しまうのだ。
 郁馬は妻女に声をかけた。
「久しぶりだの、息災か」
「はい」
「夫婦仲良くやっておるか」
「はい」
「くだらんことを聞くな」
 海伊が横から口を挟む。
「よいではないか、おのが妹が幸せかどうか心配するのは兄としてあたりまえのことだ。亭主がろくでなしで苦労しているやもしれん」
 郁馬の冗談口に、海伊はやわらかな笑みをこぼす。
 海伊の妻は、郁馬の妹の雪乃だった。
 郁馬は振り返り、立ち去る妹の後ろ姿を見やった。その穏やかな空気に心は和む。妹は、よき夫のもとへ嫁いだのだ。
 雪乃と海伊が夫婦となって七年になる。二人が強く望んだのである。家格の違いが障害となったが、二人の思いを知った海伊の兄があちこちに手を回し、
工作してなんとか婚儀までこぎ着けたのだった。
 雪乃は、家長でもある長兄とは齢が離れているせいもあり、次兄の郁馬によく懐いた。とくに幼い頃は川遊び、魚とり、木登り、虫取りといっしょに
よく遊んだ。
 剣道場に通いはじめて遊ぶことも少なくなったが、それでも仲のよいことにかわりはなかった。
 そんなある日、道場から帰ってくると、雪乃が縁先にたたずみ、泣いていた。どうしたと訊ねると、おずおずと手のひらを広げて見せた。
小さな手のひらのうえに、死んだ金魚がいた。
「動かないの」
 二人で祭りに出かけたとき、郁馬が露店で見つけ、自分の小遣いで買ってやった三匹のうちの一匹だった。雪乃はそれに「松」「竹」「梅」と名前を付け、
沓脱石(くつぬぎいし)の脇に水を満たした桶を置いて毎日餌をやりかわいがっていたのだ。
 死んだのは梅だった。
 庭の隅に埋めてやったが、それからも雪乃は死んだ梅を思ってか、元気のない日が続いた。数日後、金魚の墓のまえで泣いている雪乃を見て、郁馬は言った。
「死んだ命は生き返らない。それが命というものだ。しかし雪乃、泣くことはないぞ。死んだ人はまたこの世に帰ってくる」
「……どういうこと?」
「命は何度も死んで何度も生き返るんだ」
「金魚も?」
「そうだ。輪廻転生といってな、何度も生まれ変わる」