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今日降る雪の (オール讀物新人賞最終候補作)

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「勝負ありっ」
 怒号のような大音声が道場内に轟いた。
「先生」
 壁ぎわに居並んでいた門弟たちから声が漏れた。
 見所に二人の男が立っていた。
 一人は長く伸ばした白髪を後ろで無造作に束ねた、七十過ぎの矍鑠とした老人である。道場主の中居壮玄かと思われた。
 その脇に寄り添うように立っているのは三十なかばとおぼしき立派な身なりの武家だった。善兵衛に向けられた眼光が鋭い。
「騒がしいから来てみれば……」
 壮玄が苦々しくいった。
「面目しだいもございません」
 安岡が床にひれ伏し、言った。
「中居道場が他流試合を禁じておるのを忘れたか」
「道場の表看板を持って行こうとするのでやむなく」
「なぜそのまえにわしに知らせなかった」
「先生を煩わすまでもないと……」
 二人のやりとりに割り込み、道場破りが言った。
「すでに勝負はつき申した。看板を頂戴して参る」
 出て行こうとする善兵衛に、壮玄の脇に立っていた武士が「待て」と声を投げた。
「まだ終わってはおらぬ。おれが手合わせをしよう」
「お手前は?」
「上杉頼母。今日はたまたま先生をお訪ねしていた。そのほうは?」
「鈴木善兵衛」
「在所は」
「江戸生まれの江戸育ち。今は長屋のわび住まい」
「浪人者か。流派は?」
「馬庭念流(まにわねんりゅう)」
「上州の田舎剣法か」
 薄笑いを浮かべ、見下すように言った。
「試合は終わり申した。看板を頂戴してゆく」
「負けるのが怖いか」
「道場に籍のない御仁と立ち合ういわれはござらぬ」
「中居道場の本目録を受けておる。数年前までここで師範代も務めていた。まごうかたなく中居道場の者だ」
「御免つかまつる。看板はいただく」
「待て! おれとやってからだ」
 善兵衛は出口のほうへ歩きだしたが、ふと足を止め、振り返って言った。
「どうしてもと申されるなら---」
「なんだ」
「立ち合いは木剣にて願おう。防具はなし」
「木剣で防具なし?」
「左様」
「……わかった。それで異存はない。そういうからには、そのほうも生涯不具になっても命を落としても否やはないな?」
「聞くまでもない」
 頼母が壁に歩み寄り、木剣を取って一振りを投げる。
 浪人が受け止め、構えた。
 頼母は向き合い、だらりと木剣をさげたまま問いかけた。
「死ぬ覚悟はできているのだな?」
「………」
「どうなのだ!」
「言うに及ばず!」
「よかろう。参れ!」
 両者が青眼に構え、向き合った。
 道場内の気が一段と張りつめた。
 しかし、ふたりは構えたまま動かない。
 長い睨み合いがつづく。まるで固まって岩になってしまったかのようである。
 おもての日の光のまえに薄雲が流れてきたのだろうか、道場内にかすかに翳りがさした。
 そのとき、鈴木善兵衛がこれまでの独特の構えを解き、まえに出した左足に重心を移した。
 つぎの瞬間、身体ごとぶつかって行くように突進していった。
 受けの戦いから、突然攻めに出たのだ。
 頼母の反撃を跳ね返し、かわし、さらに撃ち込んでゆく。頼母の木剣を右に左に跳ね返しながら面に打ち込み、小手に打ち込み、喉に突き込み、休みなく
攻撃を浴びせる。
 何度も壁ぎわまで追い込み、相手が脇に飛ぶのを追って、執拗に撃ち込む。
 頼母は、相手の繰り出してくる一打一打の鋭さに当惑していた。鋭いだけではない、尋常でなく重い。受けるたびに、衝撃が電光のように総身を貫く。
 侮っていた。この男、並の遣い手ではない。
 頼母は木剣を下段にうつして、相手の打ち込みを誘った。
 木剣がうなりをのせて目の前に飛び込んできたかと思うと、ビシッと音がして、振り上げた木剣が折れ、刀身が半ばから弾き飛ばされていた。
 そのとき動揺して一瞬動きが止まったのが命取りになった。
 間髪おかず襲ってきた善兵衛のつぎの一撃が、頼母の脳天をかち割っていた。
 頭から血を噴き昏倒した頼母の顔にさらに強烈な一打が加えられた。かすかに残っていた命の火も、それで完全に消えた。
 浪人者は振り返り殺気だった目を一同に浴びせると、木剣をその場に投げ捨て、ゆっくりと出て行った。
 鈴木善兵衛と名乗ったが、それはでまかせの名だった。実の名は後藤郁馬(ごとういくま)という。
 道場の看板を取ることにあれほど固執していたはずなのに、郁馬は門を出るとき、一顧だにすることはなかった。
 欲しかったのは、上杉頼母の命だった。



      三

 郁馬が住まいのある上屋敷からほど近い日比野道場に通うことになったのは十歳のときである。父親が、本人の承諾もなく入門を決めてきてしまったのである。
小野派一刀流、北辰一刀流などの一刀流や直心影流、神道無念流などが主流の江戸では、馬庭念流の道場はめずらしかった。
 活発な郁馬少年は、たちまち剣術が好きになり、熱中した。
稽古は楽しかったが、師範代に目をかけられているのが気にくわないのか、兄弟子たちのいびりが日に日にひどくなっていった。
 その日も、防具袋を持たされ、帰って行くところだった。十歳のちいさな身体に、六人分の防具袋は重かった。思わずひとつが肩からずり落ちた。
「新吾さん、こいつ、新吾さんの防具袋を投げ捨てましたよ」
 一平太が言いつけた。
 新吾はいつもつるんでいるこの五人のなかでは最年長の十五歳で頭格である。
「ずり落ちてしまったんです」
 急いで荷物を拾い上げたが、新吾は顔に憎悪の感情をあらわにして郁馬を睨みつけた。
「来い」
 通りからはずれ、人目のない堀端のほうへ連れて行かれた。
 郁馬は暗澹とした気持ちになる。また、あれが始まるのだ。
「おまえ、野村さんに誉められていい気になるなよ」
 そんなことはありませんと言ったが、今日も師範代の野村が、めざましい上達ぶりを賞賛してくれたのは事実だった。
「小役人の小伜が生意気な」
 もう一人の子分が薄笑いを浮かべて言った。
 新吾の父親も子分たちの父親も郁馬とはべつの大藩の、いずれも上士の子弟だった。
「謝れ」
 一平太が噛み殺した声で言った。
「ごめんなさい」
「そうじゃない。新吾さんの防具袋を落として誠に申し訳ございませんでした。今後このようなことがないよう気をつけます、だ」
 郁馬は言われたとおり繰り返した。
「なんだ、その目は」
 思わず怨めしい目つきになってしまっていたようである。
すぐに目を伏せ、「ごめんなさい」と謝った。
「汚したんじゃないだろうな」一平太が新吾の防具袋をあらため、言った。「泥がついてます。それどころか破れてますよ」
 それははじめからあったほころびだった。
「よくもおれの大事な防具を……」新吾の目が細くなった。
 いじめを始めるとき、いつもそうなる不気味な目つきだった。
「脱げ」
「……どうしてですか?」
 意味がわからなかった。
「罰として裸になれと言ってるんだ」
 逆らうことはできない。
「下帯もだ」
 言われるがまま、一糸まとわぬ姿になった。
「よし、金はあるか」
「お金ですか?」
「腹が減ったから、あそこで団子を買ってこい」
 表通りの団子屋のほうを顎で指して言った。
「これでですか?」
「そうだ、すっ裸で買ってこい」
 絶望的な思いに囚われる。しかし、怖くて逆えない。