りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)
志乃が家から出てくるか、どこかからもどってくるかもしれない。
別れ際、吐いた嫌味な台詞は、七兵衛の気持ちをさらに追いつめるためだった。
いくら探索のためとはいえ、おれも嫌な男だぜ。
その日の見張りは徒労に終わった。志乃は家の奥に身を隠しているのか、七兵衛のいうとおり湯治に行っているのか、姿を見せることはなかった。
元鳥越町の裏店にもどり、疲れた身体を横たえて、枕元の行灯の火を落とそうとしているところに、表戸を叩く者がいた。
「銀次さんはおいでですか」
戸を開けると、そこに男が立っていた。昼間話した有田屋の七兵衛だった。
「お話ししなければならないことがございます」
と七兵衛は言った。
招じ入れて戸を閉め、上がりがまちに座をすすめた。
銀次は、無言で、話し出すのを待った。
やがて七兵衛は苦しそうに口を開いた。
武蔵屋の娘志乃は、十五のとき薬研堀の水茶屋で茶汲み女として働くようになった。その美貌が評判を呼び、人気絵師によって美人画にも描かれてたちまち
人気に火がつき、店に客が押し寄せることとなった。
ある日、七兵衛は休息を取りにその店に入った。日本橋室町の瀬戸物問屋の手代をしていた七兵衛は、出商いでその界隈を回っており、
たまたまその店に入ったのだ。江戸で評判の看板娘がいることなど露ほどもしらなかった。
そのとき、茶を飲み終わった七兵衛のもとに桜湯を持ってきた娘を見て、雷に撃たれたような衝撃に襲われた。一目惚れだった。この人が、わたしの妻になる人だと思った。
それからというもの、店に通い詰め、ある日、勇気を振り絞って、もうすぐ神田祭だがいっしょに行かないかと誘った。
それをきっかけに二人の仲は深まり、志乃が十七になった春、めでたく祝言を挙げた。
七兵衛は夫婦になって一念発起し、独立して精励し、とうとう店を構え、奉公人を使うまでになった。
志乃は美しいだけでなく、気が細やかで、そのうえ、大事には冷静に対処する度量もそなえ、頼りになる女房でもあった。
七兵衛にとって志乃は、かけがいのない人となった。
「その志乃が近頃元気がなく、夜ごと忍び泣いているのを見て、なにがあったのかと問いただしました。志乃はすべてを打ち明けてくれました。
知り合いの大店のおかみに誘われて湯島の宮芝居を見物に行った帰り、門前町の通りで親の仇に出くわしたと。今をときめく人気役者、雪之丞が、
両親と弟を死に追いやった張本人、豊作だったと。しかし、わたしには親の無念を晴らすことができない、とんだ親不孝者ですと志乃は泣くのです」
七兵衛の話はつづく。
「この齢になって女房の惚気などみっともない話ですが、夫婦になってますます、日をかさねるごとに志乃のことが好きになって参ります」
その表情に笑みはなく、恋する者の思い詰めた切なささえ見える。
「だからどうしても許せなかったのです。大金を盗み、その罪を志乃の父親になすりつけ、一家心中にまで追い込んだ男が。
仇を討とうじゃないか、とわたしは申しました。それじゃおまえ様や二人の子供、店の使用人にまで迷惑が、と志乃がいうので、かまうものか、
そんな奴は生かしておいちゃいけないと申しました」
銀次は訊いた。
「それでは、七兵衛さんが……」
「はい。豊作を殺そうと決心し、毒入りの酒を用意したのはわたくしです。志乃に罪はいっさいありません。身元がばれないように偽名を使い、
よその者に頼んで持って行かせるようにと言い含めたのもわたしでございます。志乃は、毒入りとは知りませんでした」
「それであっしに白羽の矢が立ったというわけで」
「お詫びの言葉もございません。ですが、ほかに手だてはなかったのです」
「罪悪人の身勝手な申し立てですね」
「おわかりください。可愛い女房を死罪獄門にかけるわけにはいかないのです」
「ところで、志乃さんは毒入りとは知らなかったとおっしゃいましたが」
「はい」
「それでは志乃さんは、毒入りでもないただの酒を豊作に届けるだけだと思っていた?」
「はい」
「それが親の敵討ちになるんですか?」
そう言われて、人の善さそうな志乃の亭主は言葉を詰まらせた。自分の弁明にほころびがあることに気づいたのだ。
七兵衛の言うことのなかにどれくらい真実が含まれているのだろうか、と銀次は探っている。
七兵衛一人でやったというくだりは嘘だ。この男は、自分一人で罪をかぶるつもりなのだ。そこまで女房に惚れているか。
「ところで七兵衛さん、雪之丞はまだ死んじゃいませんぜ」
「え?」
「そんな話は聞こえてこないでしょう」
「はい、そういえば……」
「献物の剣菱を持っていったんですがね、突き返されました」
「じゃあ、あの酒は……」
「今もわからないのですが、豊作は、なぜ献物を受け取るのを嫌がったんでしょう」
「………」
「酒を持って行くまえに、脅し文でも投げ込んだんじゃないですか? 村の五十両を盗んだのはおまえだとか、仙吉が一家心中したのはおまえのせいだとか。
そうでもなきゃ、あそこまで用心するはずがねえ」
「………」
「結句、それが豊作の命を救うことになったんですよ。皮肉としかいいようがありませんね。ところで、これからどうします?」
相手は意味が飲み込めず、いぶかしげに銀次を見る。
「自訴に参ったのです。お縄を掛けて御番所にお連れねがいます。お縄を掛けられるなら、ぜひとも銀次さんにと」
「もう遅い。今夜はひとまずお引き取り願いましょうか」
「それは……どいうことでしょう?」
「七兵衛さんはどこにも逃げやしないでしょう? ま、逃げてもかまいませんがね」
「何をおっしゃっているのか……」
「眠くて、頭がうまく働かねえ。失礼しますよ」
答えを待たず、行灯の火を消し夜具にもぐり込んだ。
暗い部屋にしばらく静寂があったが、やがて黒い影が立ち上がり、表に出た気配がして、障子戸が音もなく閉まった。
おもてで飛び交う長屋の女房たちのやかましい声で目が覚めた。
そろそろ布団を出るかとぐずぐずしていると、女房たちの騒々しい話し声がふととぎれ、同時に表戸が静かに開いて、女が入ってきた。
こんどは女房の志乃だった。
戸惑いを隠して銀次は言った。
「これはおりんさん、やっとお目もじ叶いましたね」
「今日はお礼にうかがいました。あなたさまがいなければ、大きな過ちを犯すところでした。それをとめてくださったこと、心からお礼を申し上げます」
「礼なんぞ……」
「心ばかりですが」
志乃が手に提げていた角樽を上がり框に置いた。
「いえ、お心遣いは無用です。どうぞこれはお持ち帰りを」
「毒など入っておりませんよ」
志乃は小さく笑い、お世話をおかけしましたと頭をたれてきびすを返した。
嫌な予感がして、思わず呼び止めた。
「お志乃さん、今からどちらへ?」
「呉服橋御門内の御番所へ」
「どんな用向きで?」
「毒飼いをたくらみましたと自訴しに参ります」
「雪之丞はぴんぴんしておりますぜ」
「ですが、殺そうとしたのは紛れのないことで」
「お志乃さんが殺したのは、ボラ一尾です」
「……ボラ?」
「夫婦になって十年、ご亭主は今もお志乃さんにぞっこんのようで」
作品名:りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作) 作家名:加藤竜士