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りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)

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「……七兵衛と話したのですか?」
「夕べこちらに見えられましてね、さんざんお惚気を」
「えっ……」
「今の仕合わせをわざわざ台無しにすることはねえと思います」
「………」
「さあ、家にお帰りなさい。ご亭主がお待ちですよ」
 志乃は無言で立ちつくしていたが、やがて顔がゆがみ、目に光るものがあふれて、固く閉じた口元がこまかく震えた。


 お志乃が立ち去ったあと、銀次はそのまま座り込んでぼんやり空を見ていた。何も解決してはいない。それでもなぜか、澱んでいた黒いものが消え、
心に光がさし込んだようだった。
 気がつくと、昼どきになっていた。飯でも炊くか、と立ち上がり、布団を片づけて、米を研ぎはじめた。
 竈の前にかがみ込んで火吹き竹を吹いていると、腰高障子がいきなり開いて、侍が飛び込んできた。文史郎だった。
「銀次、いるか」
「おや、八丁堀」
「行くぞ」
「でも、いま飯を炊いて……」
「あとにしろ。雪之丞が刺された」
「ええっ?」


      六
 番屋の土間に置かれた戸板の上に雪之丞の亡骸が横たわっていた。
 胸と喉を刺され、藍白の派手な単衣が血で真っ赤に濡れている。
「下手人は?」
「お縄をかけられて今は大番屋だ」
「まさか……」
 お志乃か七兵衛かと胸が騒いだ。
「おりんじゃねえよ」文史郎はにっと皮肉っぽい笑みを銀次に向けて言った。「どこかの大店のお嬢様だとよ。ほかに女をつくったとかなんとか、悋気(りんき)昂じてかっときてやっちまった。お座敷に飛び込んできて、大勢の目のまえで包丁でぶすりとやったんだから、下手人ははなからわかってる。これで一件落着だ」
 銀次はほっと胸をなで下ろす。
「これで、毒入り下り酒の件も仕舞いだ。そういうことでいいな?」
「いいんですか?」
「それしかねえだろう。五十両盗んだ当人が死んじまったんだ。それとも、死人をお白州に引っ張り出すか?」
 旦那もとぼけたお人だ、と銀次は苦笑する。話をすり替えて、毒入り酒の一件も幕引きにしてしまおうと言っている。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いじゃねえ」
 雪之丞の死を知って世間は騒然とし、女たちは取り乱し、日々泣き暮れることだろう。しかし銀次は、とてもそんな気持ちにはなれない。
いつしか志乃夫婦に親近感を抱くようになっていたし、同情心も湧いていたのだが、文史郎もきっとおなじ気持ちなのだろう。雪之丞の死は自業自得だし、
みずからが招いた運命だったのだ。
 五十両を盗んだ罪ではなく、それとはまったく関わりない色恋沙汰で死罪という裁きを下したのは、お天道様の悪戯心かも知れない。
 それにしても、あっけない、拍子抜けするような幕切れだった。
 銀次は人気役者の亡骸を見下ろし、気の抜けたような吐息をふうともらした。


「銀さん」
 やえが梯子段を上がってきて、二階の座敷で先に一杯やっている銀次のまえに立った。黒地の縞物の着物に着替えていた。
「お」
 思わず声をあげた。先日、土産に持ってきた八王子織物で誂えた小袖である。
「どうだえ? 知り合いの縫子さんに無理を言って、急いでやってもらったんだ」
 なかなかいい。女っぷりがますます上がったと思うが、照れくさいからそうは言わない。
「ま、いいんじゃねえか」
「なんだよ、素直じゃないねえ」
 笑いながら近づいてきて、となりに座った。
「おめえも一杯やりな。上物の下り酒だ」
「美味しい」
 やえが酌を受けた剣菱を一口味わって、声を漏らす。
「実はね」やえがいきなり切り出した。「昨日、志乃さんという人と話をしたんだ」
「え?」
「おまえさんの家に行ったのさ。ちょいと野暮用でね。そしたら、薄暗い上がり框に知らない人がいるじゃないか。あたしゃ、びっくりして腰が抜けるかと思った。それがお志乃さんだったんだ」
「そうか、来たのか」
「あまりにもしょんぼりしてるし、訳ありのようだったから、ここに連れてきたんだ」
「ここに連れてきたのか……?」
「ああ。話はぜんぶ聞いたよ。たいへんだったんだねえ」
「なにを聞いた」
「なにもかもさ。生まれ在所から金箱盗みの濡れ衣を着せられて村八分になったとか、今日までのいきさつまで。雪之丞はまだ死んでいないらしいけど、
まもなく毒入り酒を飲んで死ぬだろう。わたしは人殺しですって」
「そうか」
「わたしも父親を殺したいと思ったって打ち明けた。殺すことは叶わなかったけど、罪深さに変わりはない。生きるってことは、そういう因果を背負うことなんだってあたしは言った。ね? まちがってないだろう?」
「ああ、おめえの言う通りだ」
 銀次も自分の背中に負った因果の数々を思い起こす。
 辛く悲しいものだったが、人はその重さに堪えて生きていかなければならないのだ。生きているかぎり贖罪を望むなど許されない。
「ところで、おれんところに来た野暮用ってな、何だったんだ」
 にこりとしてやえは席を立ち、すぐに戻ってきた。
「これ、おまえさんに」
 目の前に広げられたのは、古渡り胡麻柄の唐桟の着物だった。
「帯も買った。どうだい、粋だろう? 銀さんにお似合いだ」
「こいつは、持参金のかわりかえ?」
「……え?」
 振り向いたやえの表情が固まった。
「おやえ、おたがい、そろそろ年貢の納め時とは思わねえか」
「……ちょ、ちょっと待っておくれ。確かめておきたいんだけど、それは祝言の申し出かえ」
 銀次が気恥ずかしそうに頷く。
やえは顔を輝かし、手を差し伸べる銀次の胸に飛び込んでいった。




                                了