りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)
伝三は物乞いと変わらぬまでに堕ちた。道行く人に酒代をねだり町を徘徊するようになったのだ。そして、ある雨の日、足を滑らせ油堀川に落ちて死んだ。
やえが伝三を殺したいとはじめて思ったのは、つい先だってのことである。母の墓前に手を合わせていたとき、トキの憐れな生涯が思い返されて、
あらたな悲しみに心が震えた。それとつながって、伝三の数え切れないほどの無法がつぎつぎとよみがえった。
子供のころは父の専横ぶりにひたすら怯えているだけだったが、今ならその姿をはっきりと見定めることができる。そこには、父としての自負も
威厳の欠片もなかった。
あの男は、生きる力をどこかにおいてきてしまったのだ。生きる力がないことを嫌と言うほど思い知らされ、前に進むことをやめてしまったから、
あんな生き方しかできなかった。本人も辛かっただろうと思う。しかし、それがどうしたというのだ。同情する筋合いなどどこにもない。
わたしたちはそのせいでさんざん苦しめられたのだ。
突然殺意が突き上げてきたのは、そのときだった。母を殴り、髪を掴んで引きずり回す伝三を殺したいと思った。
その父親は、五年まえに死んでいた。
「だけど、あいつはもういないんだ。この気持ちをどうしたらいいのさ」
やえはため息混じりに独り言ちた。
「聞いて悪かったな」
銀次は素直に謝った。
「父親を殺したいと思ったんだよ? 実の父親を。なんて女だろうねえ。親を殺したいだなんて、あたしゃ人でなしだ」
あふれた涙が頬を伝い落ちる。その透き通った涙が、銀次の胸にしみる。
やえが愛おしかった。
抱き寄せて、命を絞り出すように言った。
「おめえはなにがあってもやえだ。優しくて、心ばえのある、いい女だ」
美しい女は、細い肩をふるわせ、銀次の胸の中でいつまでも泣いた。
底の見えない深い夜だった。
朝いちばんで文史郎に八王子の聞き込みの結果を報告し、その足で浅草茅町の老人宅へ行って庭の草引きをすませた。こちらは頼まれ屋の仕事である。
つぎの日も朝から障子紙の張り替え、家移りの手伝いと頼まれ屋の仕事をこなした。そうしているあいだも、探索のほうに気が行って落ち着かなかった。
おりんが、雪之丞がいつまでたっても死なないのでたしかに酒を届けたのか文句を言いに来ないか、あるいは、業を煮やしたおりんが、ふたたび雪之丞殺しを試み、やってきたところを押さえられるのではないか、などと思いをめぐらしたが、事がこちらの思惑通りに都合よく運ぶはずもなかった。何事も起きず、時だけがいたずらに過ぎていった。
つぎの日、布団から這い出して遅めの昼飯をとっていると、開け放した戸口から声がした。
「銀次さんはこちらで?」
戸口から中を覗いているのは、飛脚だった。
「へい」
「早便り(速達)でございます」
八王子村の田子久右衛門からだった。銀次が帰ったあとさらに調べて、取り急ぎ書き送ってくれたのだ。
部屋に戻るのももどかしく、軒先で手紙を開いて文字を追いはじめた銀次の顔が、見る見るうちにこわばった。
五
「八王子村の田子久右衛門さんから手紙です」
文史郎は銀次から手紙は受け取ったが開いて読むこともなく、訊いた。
「なんと書いてある」
「読んで肌が粟立ちました」
銀次が帰ったあと、久右衛門が、戸吹村の益田徳之助という名主に雪之丞、真名を豊作という男のことをたしかめてくれたのだった。
手紙はその報告である。
今から十四年前、名主の徳之助の家で盗難事件があった。屋敷の奥の間に置いてあった二つの金箱のうち、村入費の一時金五十数両が入った金箱が
盗まれたのである。
なくなっていると気づく半刻ほどまえ、小作人の仙吉が来て、不在にしていた徳之助の帰りを待っていたが、しばらくして帰った。仙吉が疑われたが、
そんなことをする男ではなかったので、疑いはすぐに消えた。しかし、その夜、豊作が徳之助のところに来て、仙吉が重そうな物を抱えて歩いているのを見たと告げた。
金箱かと聞くと、それはわからないが、調べてみたほうがいいかもしれませんと言って帰っていった。
徳之助が寄場役人を伴って仙吉の家を調べると、家裏の雑木林から金箱が見つかった。箱はばらばらに壊されて土に埋められており、中身はなくなっていた。
盗んだのは仙吉だということになった。
しかし、徳之助は仙吉がやったとはどうしても思えず、不問にして、盗まれた金は徳之助自身が穴埋めし、事件は犯人がわからぬまま終結とした。
しかし村人たちの疑いは解けず、村八分にされた。それから一年もしない秋の終わりのある日、仙吉は一家心中を計った。その年は未曾有の大凶作で、
口にできる米が一粒もなくなったので、それもあったのかもしれない。
仙吉夫婦と幼い息子は死んだが、娘が一人生き残った。父親に首を絞められたのだが、徳之助たちが駆けつけたとき、息を吹き返したのである。
豊作が村から姿を消したのは、その直後のことだった。
生き残った娘は、日本橋横山同朋町の遠戚に養女として引き取られた。遠戚は蕎麦屋で、屋号は「武蔵屋」という。
そのとき娘は十四歳で、名は志乃といった。
話を聞き終わった文史郎は、睨みつけるように銀次を見た。
「銀次、しかと頼むぜ」
「へい」
すぐさま同朋町に向かった。
武蔵屋という蕎麦屋はまもなく見つかった。奥で蕎麦を打っていた初老の主人に、こちらに志乃という方はおいでですかと訊ねると、たしかにうちの娘だが、ずいぶんまえに嫁入ったという。
嫁ぎ先は有田屋。日本橋今川橋跡の瀬戸物屋である。
有田屋は、間口十間もある立派な店構えの、伊万里焼を中心に品揃えしている陶器屋だった。
志乃は家を留守にしていた。御用の筋と聞いて応対に出てきた主人の七兵衛は、女房は病み上がりでなかなか元気がもどらないので、気散じをかねて
熱海の温泉に湯治に行かせたといった。
戻りはと訊くと、いつになるかわからないと答える。
「病み上がりといいますと、お内儀はなにか病でも?」
「……ええ」
怪しいと銀次は感じる。七兵衛はいかにも誠実そうで嘘をつくような男には見えない。その正直者が必死に嘘をついている。
「ところで、なにをお調べなので?」
銀次は答えに迷ったが、ここで思い切って揺さぶりをかけてみることにした。
「雪之丞殺しの件で」
「えっ……」
七兵衛の顔からたちまち血の気が引いていった。
「あの宮地芝居の人気役者の雪之丞ですか?」
「左様で」
「それと志乃がどういう関わりがあるとおっしゃるのです」
「さあ、そいつをいま調べているところで」
おれは、雪之丞と名前を言っただけだ。七兵衛は、雪之丞が何者かを知っていた。志乃が絡んでいるとは一言も言っていないのに、あっちから言い出した。
「お帰り下さい」七兵衛は唇をわなわなふるわせながら言った。「うちの女房が人殺しなんて、とんでもない言いがかりです」
「さようですか。それじゃひとまずお暇するといたしましょう」
立ち上がり、帰りかけたが、思い出したように振り向いて言った。
「てめえの女房が人殺しだなんて、考えただけでもゾッとしますやねえ」
店を出るとすぐに裏に回り、見張りについた。
作品名:りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作) 作家名:加藤竜士