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りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)

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 関東には、関東取締出役と直結した御改革組合村という治安取締を行う組織がある。寄場組合とも称し、八王子では十五宿を親村寄場とし、
それぞれ組合村を組織して、小組合に小総代、その上に大総代を置いている。
 田子久右衛門はその大総代で、取締組合の中核である寄場役人でもある。だから、土地のことにも精通している。
 久右衛門は軒先で雨に濡れてたたずむ銀次を招じ入れ、上がりがまちに座を勧めた。添え状を読むと小女を呼んで茶を出すよう命じ、言った。
「さて、なにをお話しすればよろしいかな?」
「偽名なのでお聞きしても詮のないことかも知れませんが、おりんという女を知りませんか。齢のころは二十六、七。とびきりの美人です」
「さて、心当たりはありませんなあ」
「では、豊作という男は? これも美形です。齢は三十少し前。今は宮芝居の役者になって、たいそう人気を呼んでおります」
「豊作……はて、聞いたような……」困ったように首をかしげていたが、「そうだ、人別帳を調べてみましょう」
 と言って席を立った。名主は、村の住人の人別帳を管理している。
 十数年分なのだろう、風呂敷包みを抱えてもどってきた。
 手分けしてそこから豊作の名を探す。小半刻(三十分)もたったころ、
「ああ」
 久右衛門が声を上げた。見つけたのだ。
「いましたよ、豊作だ」思い出したらしく、人別帳の記述を指先でとんとんと叩いて言った。「百姓がいかにもの名前なので思い出しました。
戸吹村の小作人の伜です。十三年前にいなくなっていますな」
「いなくなっている?」
「いきなり、ふっといなくなったんです」
「なにか事件に巻き込まれたとか、悪いことをしてばれそうになったとかして、逃げ出したとか」
「そんなことはないと思いますよ。家族にもだれにも思い当たる節がない。理由がわからんのです。神隠しと騒ぐ者もいたが、そうですか、江戸にいましたか」
「いなくなったとき、豊作はいくつでした?」
「十五です」
 今の雪之丞は三十少し前。齢の数は合う。
「どんな伜でしたか」
「さて、取り立ててなにかあったとは……」
「さようですか……」
 なんの手がかりも見つけられず、銀次は落胆していた。わざわざ八王子くんだりまでやって来たのに、無駄骨に終わった。
 銀次の気持ちを察してか、役に立てずに申し訳ないと久右衛門は謝った。
 雨のなかをまた江戸までもどると思うと気が重かった。
 それを囃すように、どこかで烏がやかましく啼きはじめた。


「おや、こんなに遅く、どうしたえ?」
 夜の四つ(十時)をすでに過ぎていた。
 戸板を開けたやえはすでに寝間着姿だったが、機嫌を悪くするでもなく迎えいれた。
 無造作に渡された包みを開けて、訝しそうに見た。中身は黒地に薄鼠色の縞が入った縞物の着尺である。
「これは?」 
「反物だ。おめえに似合いそうだから買ってきた」
「あたしに?」
「八王子織物だ。なにか誂えるといい」
「渋くてなかなかいいじゃないか」嬉しそうに見入っていたが、ふと目を上げた。「八王子? 八王子村まで行ったのかえ?」
「御用の筋でな」
「そりゃご苦労だったね。くたびれたろう」
「くたくただ」
「寝る前に一本つけよう。ねっ?」
 やえはいそいそと梯子段を下りていった。
 疲れていたのは身体だけではなかった。気付かぬうちに、心の中から柔らかさまで消えてしまっていた。
「おめえが殺したいと思ったのは誰なんだ」
 二階の座敷で酒を飲みかわすうち、ふと口をついて出てしまったのだ。
 やえは飲んでいた猪口を盆にもどし、銀次を見た。
「どうしてそんなこと聞くのさ」
 踏み込んではいけない過去の記憶を、こじ開けようとしていた。
 先日聞いたとき、答えをはぐらかされた。辛く悲しい過去を掘り返すことになるのだと気づいて、深追いするのをやめた。
あのとき、聞いたことを後悔したのに、今夜また、蒸し返してしまった。
「知りてえんだ。おめえのことをぜんぶ」
 やえがぽつりと言った。
「父親だよ」
「おめえの?」
 やえは小さく頷き、観念したように重い口を開いた。
 父の伝三は貸本屋の奉公人で、貸本を背負って外回りをしていたのだが、不始末を起こし、暇を出されてしまった。
商品である貸本や売上げの金を何度もなくし、使い込みを疑われたのである。
 それからは、羅宇屋、眼鏡売り、青物売り、青竹売り、冷水売りとさまざまな振り売りをやったが、どれもうまくいかず、
しまいには働きに出ることをやめてしまった。
 母親のトキは家計の助けにと、永代寺門前町の料理屋に女中に出たが、伝三が仕事をやめてからは、その給金が家族四人の
暮らしを支える唯一の便となった。
 伝三は昼日中から酒を飲むようになった。女房がもらってきたわずかな給金を当てにして酒屋に走らせるのである。
 トキが、暮らしの費えが苦しいと訴えれば、「金のことをおれに言うな」と怒りだし、髪を掴んで引きずり回し、殴る蹴るした。
 だから、やえと幼い弟にとって伝三はひたすら恐ろしい存在だった。濁った酔眼で睨みつけられると身がすくんだ。
 母親のトキが、料理屋の仕事が長引き帰りが遅くなると、家の者が腹を空かせて待っているのに飯もつくらず余所で油を売りやがって、
それでも女房かと怒鳴りつけ、いつものように頬を張り、髪を掴んで引きずりまわした。いつまでもやめない伝三に弟がしがみついて
「やめて」と泣き叫んだ。やえも、「やめて」と泣いて懇願し、突き飛ばされて竈に顔をぶつけうずくまっているトキに抱きついて庇う。
それでも、伝三は疲れて眠り込むまでやめなかった。毎日のように繰り返される修羅場だった。
 兄妹で相談して、別れたほうがいいとトキに言ったことがある。しかし、女の側から離縁を申し出るなど道義にはずれたことはできないと言う。
 離縁ができないなら、三人で逃げようと言ったのだが、そうもいかないと母は力なくうなだれるだけだった。
そのときのトキの気持ちがやえは今も理解できない。誰の目から見ても伝三はろくでなしだったし、女房に逃げられても当然の男だった。
 だからといって、父親への恐怖心や嫌悪感が殺意に変わることはなかった。どんなろくでなしだろうと父は父であり、敬うべき家長だから、
殺すなどは思いもよらないことだった。母もおなじだったのかも知れない。
どんなに虐待されようと、女というものは男に仕え尽くすものだという考えに囚われていたのだ。
「おめえは、いつも明るくてよく笑う子だった」銀次はしみじみと言った。「まさか心中にそんな辛い思いを抱えていたとはなあ」
「そりゃそうだよ。父親が荒れはじめたのは、銀ちゃんがよその町に家移りしたあとだからね」
 やえが十四のとき、トキは苦労がたたったのか、風邪をこじらせてあっけなく死んだ。二つ下の弟は大工に弟子奉公していたし、やえは清元の
師匠宅の通いの女中をしていたが、かねてから勧められていたこともあって住み込みになった。
 兄妹は佐賀町代地の裏店に寄りつかなくなり、ときどき無心に来る父親を追い返した。つまり二人の子は、母の死をきっかけに伝三を捨てたのだった。