りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)
「ところで旦那、雪之丞があそこまで頑固に献物を断ったのは、なにか思い当たる節があったからじゃねえでしょうか」
「というと?」
「たとえば、命を狙われている前触れがあったとか」
「ふん」文史郎は雪之丞の顔を思いうかべたらしく、鼻で嗤った。「あの色男、どんな悪さをしやがった」
「へ?」
「中村座の座元に会ってきたんだ」
定町廻りの同心は、お役目で、狂言替わりごとに演し物の検閲を行う。当代の御公儀に関わるような事件を扱っていないか、
江戸府内で起こった事件を題材にしていないかなどを検閲するためである。
江戸三座にはお役桟敷という専用の場席があって、そこで新しい演目を観て検閲する。それが縁で文史郎は小屋主の座元とも親しくなり、
今では気易く言葉をかわす仲になっていた。
「雪之丞は歌右衛門の愛弟子といってたらしいが、そうじゃねえ。真名(本名)は豊作といって、ただの付き人だ。歌右衛門にくっついて
上方からこっちに下ってきたんだ」
中村歌右衛門は大坂の歌舞伎役者である。江戸に招かれてしばらく中村座の舞台に立ち、絶大な人気を博したが、今は大坂にもどっている。
「すると、雪之丞も上方者で?」
「いや、もともとはこっちのほうの出らしい」
「江戸から上方にのぼって、そこで歌右衛門の付き人になったということですか?」
「そうだ。しかし、こっちにもどって来てすぐにお払い箱になった」
「どういうことです?」
「使い物にならなかったのさ。歌右衛門が舞台に上がるときの小道具を忘れる、間違える、早替わりの介添えも邪魔になるだけ、
おまけに師匠の財布から金を抜いたり、楽屋荒らしなんかもやってたらしい」
「それじゃ馘にもなりますね」
「物静かで穏和な歌右衛門が、めずらしく声を荒らげて怒鳴りつけたそうだ」
「よほど腹に据えかねたんでしょうね」
「それでしばらくしたら、野郎、小芝居の人気役者になっていた。歌右衛門の愛弟子とかなんとかいって、うまくもぐりこみやがったか」
銀次はいった。
「たいそうな人気で、毎晩のようにお座敷に声がかかるそうです。贔屓筋は雪之丞の取り合いで大変だそうですよ」
「付き人のできそこないが、大したご出世だ」
「そこで、湯島あたりを聞いて廻ってみようかと思うんです。やつの身上の手がかりでも掴めねえかと」
「そいつはいいところに目をつけたな。銀次、やっぱり、おれの見込みどおりだった」
「どういうことで?」
「おめえは、腕っききの岡っ引きだということさ」
日本橋の高札場のあたりまで来たとき、ぽつりときた。
「降って来やがった。こいつは本降りになりそうだな。どこかの番屋で傘を借りるか」
二人はそこで北と南に別れ、足を速めた。
雨はすぐに激しく降り出したが、一刻もたったころ霧雨にかわった。
今日は湯島天神の切通坂を上っていったので、前ほどたいへんな思いをしなくて済んだ。
上がりきったところで振り返ると、そぼ降る雨の中に江戸の町がひろがっていた。
足下に不忍池が見え、むこうには大川がゆったりと流れている。晴れていれば、右手には江戸城も望めるはずだった。
左に折れて門前町に入ってゆくと、花街の色合いが濃くなる。両側に料理茶屋や巾着屋、菓子屋、煙草屋、酒屋、銭両替屋などさまざまな
見世が立ち並ぶ。江戸三座の芝居町ほどではないが、芝居茶屋も何軒かある。芝居見物の客の案内や食事などの世話をする見世である。
客はここに役者や芸者を呼んで遊宴もする。
湯島は陰間(かげま 男色家)の町でもあり、芝居茶屋よりも陰間茶屋のほうが目に付く。男色がもてはやされた昔とちがって、今は陰間茶屋も影をひそめたが、日本橋芳町、湯島天神前、芝神明門前の三所だけは今も健在である。
銀次は芝居茶屋をしらみつぶしに当たってみるつもりだった。
手はじめに入った一軒目で、こちらに雪之丞が来たことがあるかと聞いた。
「どちらさんで?」と訝しそうに聞き返す若い衆に、
「いま人気絶頂の雪之丞さんのことを読売に載せたいので」
と、矢立を手にして言った。
十手を見せれば気構えて、かえって口が重くなるかもしれないと考えたからである。
若い衆は読売屋と聞いて気を許したらしく言った。
「うちで遊んだことはないが、よく見るぜ。雪之丞が通ると、通りがどよめく」
よほどの人気のようである。
若い衆は、舞台に出てきたときの雪之丞の美しさや艶っぽさを褒めちぎり、女たちが群がり取り合うのも無理はないと、人気の凄さを並べたが、
身上が知れる手がかりは出てこなかった。
そのあと回った三軒の芝居茶屋も似たようなもので、手がかりは出てこなかった。
四軒目の茶屋を後にしようとしたとき、手代らしき男が銀次の背に声を投げてきた。
「雪之丞は鶴屋さんを贔屓にしている。そっちで聞いてみな」
教えられた芝居茶屋を訪ね、応対に出た女主人に役者の道に入る前の仕事やどこの生まれか訊ねてみたが、なにも知らなかった。
落胆して話を切り上げようとしたとき、女主人が言った。
「そういえば、おまえさんとおなじようなことを聞いた人がいたねえ」
「どんな人です?」
「齢は二十六、七に見えたがね、年増だけどきれいな人だった。座敷に上がって御酒と料理を召し上がったんだが、ご婦人がこういう見世に一人で
見えるのはめずらしいことだから覚えているんですよ。その人が、雪之丞が大好きだとか言って、根掘り葉掘り聞いていった」
「……」
「そんなにお好きなら、一度お座敷にお呼びになってみたらいかがですかと言ったら、恥ずかしくてそんなことはできないって。
変わったご贔屓(ひいき)さんだ」
愛想のいい鶴屋の女主人は丸い顔を崩して笑った。
「名前は……?」」
「さあ、なんといったかねえ。二度目もひとりでお見えになって、わたしを酒の相手に話をしていったんだけど」
「ひょっとして……」そう言いながら、銀次の胸は波打っていた。「三十三間堂町の材木問屋のお内儀で、おりんさんといいませんでしたか」
「ああ、そうだ、その人だ。お知り合いかえ?」
「いえ、ちくとお名を耳にしたことがあるだけで」
肌がざわっと粟立った。あの女だ。消えたと思ったあの女が、この町に来ていた。おりんという名の女が。
「二度いらしたんですか?」
おりんは、雪之丞の真名はなんというのか、在所は八王子村ではなかったかと訊ねたという。
「八王子村?」
「ええ。たしかに雪之丞さんはお得意さんだけど、そんな立ち入ったことまではねえ。てっきり上方の人だと思っていたし」
四
朝から雨が降りつづいていた。
まだ明けやらぬ六つ頃に元鳥越町を出てきたのだが、八王子村に入ったときには昼を過ぎていた。
銀次はぬかるむ田舎道に足を取られながら、やっと目指す屋敷にたどり着いた。八王子村の名主の田子久右衛門で、その屋敷も豪壮である。
出てきた久右衛門は五十二、三の、品のある男だった。
「江戸元鳥越町の銀次と申します。御用の筋でお話を伺いに参りました」
と銀次は書状を取り出した。文史郎が、関東取締出役、通称八州廻りを務める友人に書いてもらった添え状である。
作品名:りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作) 作家名:加藤竜士