りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)
「ない?」銀次は当惑して、聞き直した。「ご町内に伊勢屋という材木屋さんはないんですか?」
「ないよ」
表口まで出てきた町役人らしき初老の男がぶっきらぼうに言った。
三十三間堂町の自身番屋である。
「伊勢屋の内儀という方に用を言いつかったんですが」
町役人が番屋の狭い座敷のほうを振り返り、調べ物でもをしているのか、眼鏡をかけ、帳面を繰っている老人に声をかけた。
「瀬利屋さん、伊勢屋という材木問屋を知っているかい? 聞いたことないよねえ?」
眼鏡の老人が気むずかしそうな顔を上げ、戸口のほうにちらりと視線をよこして言った。
「ないね。わたしの知っているかぎり、三十三間堂町どころか、木場の問屋仲間に、伊勢屋という材木屋はない」
町役人の男があとを継ぐ。
「この人は深川で古くからやってる材木問屋さんだ。この人がないというんだからないよ」
眼鏡の老人が帳面に目をもどし、すこしばかり嫌みっぽくつぶやいた。
「私が知ってる伊勢屋は、料理屋と菓子屋とそば屋と駕籠屋と早物屋(葬儀屋)くらいのもんだ」
ずいぶんとある。
町役人が銀次に言う。
「伊勢屋というのは出まかせだったんじゃないのかね。火事喧嘩、伊勢屋稲荷に犬の糞というくらい、どこにでもある屋号だ」
「木場の材木問屋のお内儀でおりんさんという方はご存じ……」
言い終わらないうちに、眼鏡の老人は無言で首を振った。
りんという女が、この世から消えてしまった。
銀次は番屋のまえで茫然と立ちつくした。おりんが内儀でないにしろ、その店と何らかの関わりがある者だとおぼろげに見当をつけていたのだ。
ところが、そもそも、伊勢屋という材木問屋はないという。
そういえば、と銀次はすぐに腑に落ちる。
どうして自分で届けないのかと訊いたとき、女は思いのほかあっさりと打ち明けた。ふたりは理ない仲だったが喧嘩別れしたと。
今ならわかる。理由を聞かれたときのために、もっともらしい口実をあらかじめ用意していたのだ。まんまと騙された。
あの女、いったいどこのだれだ。
「おう」
小者を従えてやってきた平井文史郎が、三十三間堂町の番屋のまえで待っていた銀次を認めて近づいてきた。このあたりは、文史郎の町廻りの廻り筋である。
「なにかわかったか」
「それが……伊勢屋という材木屋はないというんで」
文史郎はふんと鼻を鳴らし、ふて腐った笑みに口元をゆがめた。
「敵もやってくれるじゃねえか」
「酒のほうは……」
「酒に浸しておいた銀簪が真っ黒になったとよ。やっぱり毒入りだった。いま、酒の入手先を探らせているが、まあ、わからずじまいだろうな」
下り酒を扱う酒屋は少なくないし、料理屋などからも手に入れられる。買った客までたどり着くのは至難の業だろう。
そもそも、こうなると、中身がほんとうに剣菱だったかどうかも怪しくなってくる。
「旦那、雪之丞を洗ってみるというのはどうでしょう」
「役者のほうを?」
「へい。こうなると、とっかかりはそこしか残っていません」
「んー」文史郎は腕組みをして考え込んだ。「そうだな、ちょっと突っついてみるか」
「おめえ、人を殺したいと思ったことはあるか」
「……なんだね、藪から棒に」
酌をしていたやえが顔をしかめて銀次を見た。
ひさしぶりに諏訪町の家を訪ね、二階に上がって飲み始めて半刻(一時間)ほどたつ。
「あるか」
「そうだねえ、死んじまえって思ったことはあるけど、殺したいとまではねえ」
「殺すほど怨んだことはねえか」
「殺したいほど怨んでも憎くても、ほんとうに殺すのとは大違いだ。そんな恐ろしいこと、できるもんか」
「そうか」
「……なにか、御用の筋とかかわりがあるのかえ?」
銀次にはたのまれ屋のほかにもう一つの稼業があることを、やえは知っている。
「まあな」
おりんという女は、銀次を利用して人を殺そうとした。ひとつ間違えば、銀次が下手人にされ獄門となることもあったのだ。
それなのに、さほど怒りが沸いてこないのが不思議だった。それはたぶん、あの女が醸し出す凛とした空気だ。毒婦や犯罪者なら隠そうとしても隠しきれない、身にまとわりついた胡散臭さや鋭利な刃物のようなものが感じられなかった。
手口は悪辣で陰険だが、そこにはなにか毅然としたものがあった。雪之丞を殺そうとしたのには抜き差しならないわけがあったのではなかろうか。
そう思えてならず、やえに聞いてみたのだ。女ならわかる気持ちがあるかもしれない。
「どんな野郎だ」
「え?」
「おめえが殺したいと思った相手さ」
しばらく考えていたが、「忘れた」と投げやりにいい、顔を近づけてきて耳元で囁いた。
「ここに来たときは、御用のことは忘れておしまい」
そういって唇を吸い、銀次の盃に酒を注いだ。
その柔らかな声に、心の中にわだかまっていた悲しみ、やり切れなさ、切なさ、痛み、すべての黒い澱みが嘘のようにかき消える。
いい女だ、と銀次は感慨してやえを見る。
開けた窓の向こうに明るい月が見えている。雨も風もない静かな夜だった。
開いたふすまの向こうの部屋にはすでに夜具が延べられ、有明行灯の明かりにぼんやりと浮かんでいる。枕が二つ。
「今夜は泊まって行けるんだろう?」
背中を押しつけるようにしなだれかかってきた。
やえは、そんなことをする女ではなかった。その美貌とは裏腹に色気に欠け、男に媚びることもない。それがかえって気に入ってもいたのだが、
今夜はいつもとちがっていた。めずらしく酔ったのかもしれない。
柔肌の甘い匂いが銀次をつつみ、奥に潜んでいた欲情をかき乱した。
後ろから抱きすくめ八口(やつくち)から手を滑り込ませると、んっと小さな声がこぼれでた。
奉行所から出てきた文史郎は、空を見上げて誰に言うともなく言った。
「すっきりしねえなあ」
空はどんよりと曇り、湿気が肌にまとわりつく嫌な陽気だった。
「おはようございます」
門前で待っていた銀次が歩み寄って挨拶すると、文史郎は前置きなしに言った。
「雪之丞に会ってきたぞ」
「え? 本人にですか?」
「そうだ」
銀次は驚いて文史郎を見た。本人に気付かれないように、ひそかに周辺を探ってみるつもりだったのだ。まさか、本人に直接聞きに行ってしまうとは。
しかし考えてみれば、雪之丞に嫌疑がかかっているのではなく被害者側なのだから、直接たしかめてみるのも手かも知れないと思いなおした。
歩き出した文史郎を追いかけて、銀次が言った。
「それで何かわかりましたか」
「殺そうとした野郎に心当たりはねえと言いやがる」
「そうでしょう? あっしにもそう言ってました」
「どうなってるんだ。女は、雪之丞も覚えていないほど些細なことで逆恨みしたか、それともはなから人まちがいか」
なにもかもしっくりこない。銀次は歯がゆさを覚える。
「そういえばよ」文史郎は思い出してふっと笑った。「角樽を持ってきた男は、そんな恐ろしいことをするような人には見えませんでしたよ、と言ってた」
「雪之丞は、あっしが毒を入れたと思っているんですか?」
「だから、違うといっておいたよ。まっとうな、信の置ける者だとな」
作品名:りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作) 作家名:加藤竜士