りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)
弁天小僧そのままの衣装と白塗である。三十少し前だろうか、おりんとさほど齢は変わらないように見える。
さすが当代きっての花形役者だけあって、細面の男前で色気があり、花もある。
雪之丞は、辞儀をし、いささか困惑したように銀次を見た。
「お届け物でございます。どうぞお納めを」
角樽を差しだした。
「あの、どちらさまの」
「名はいわずともおわかりになると」
「はて、そう申されましても……」
「深川の伊勢屋さんのお内儀です」
しかたなく名前を出した。
「はて、存じやせんが」
「おりんさんという方です」
「存じません」
困ったように重ねる。
おりんとのことをおおっぴらにされたくないのかも知れないと察して、言った。
「ご贔屓筋も大勢いらっしゃるから、覚えておいででないかも知れません。お礼のしるしとおっしゃっていました。どうぞお納めください」
「なんのことかわかりませんが、縁も所縁もない方から頂くわけにはまいりやせん」
銀次は戸惑う。人気商売だから、見ず知らずの者から献物を受けることもないことではないだろう。それを断るとはどういうことだ。
しかし、どうしても受け取ってもらわないと困る。それが頼み主の注文だ。
銀次は機転をきかして言った。
「剣菱は、浪士が討ち入り前夜に飲んだ出陣の酒だそうでございます。太夫は、大芝居で『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助を演じるのが夢だそうで。
これはそれに掛けた験担(げんかつ)ぎの御酒(ごしゅ)でございます」
「大星由良之助? わちきはべつに由良之助を演じてみたいと言った覚えはござんせんよ」
嘘ではなく、まったく心当たりがないような口ぶりである。あるいは役者だけに、よほど芝居が上手いのか。
銀次は困り果てる。どこの誰とわからずとも、適当に礼を言って、受け取ればいいことではないか。それを、どうしてここまで頑なに拒むのか。
「わざわざご足労いただいて申し訳ありやせんが、これは」
持って帰れという。
そこまで言われては、押しつけて帰るわけにもいかなかった。
「……さようですか。お騒がせいたしました」
銀次は角樽を取り、すごすごと裏木戸を出た。
頼まれごとが不首尾に終わったことを頼み主に伝え、受け取った金を返さなければならない。
どうやら、雪之丞は伊勢屋にもおりんという女にもほんとうに心当たりがないように見えた。その真偽も訊ねてみたい。
いったいどうなっているのだ。しかし、このことは亭主にばれると都合が悪いようだし、会って話すにはどうしたらいいのだろう。
思わず眉間に皺が寄った。
浅草御門にさしかかったときには、日が傾きはじめていた。
元気にはしゃぐ声がして、振り返ると、神田川の川縁で子供たちが釣りをしているのが目に入った。男の子が三人、女の子も一人いて、川面に釣り糸を投げている。
見ると、水面が無数の魚影で埋め尽くされ、波立っている。ボラだ。ときおり河口などに湧いたように大群が現れることがあるが、大人は見向きもしない。とくに温かい時季のボラは、身が臭くて、猫も食べないほど不味く、「猫またぎ」といわれるほどである。
そんな食べられない魚でも、子供にとっては格好の遊び相手なのかも知れない。
「釣れた!」
「だれか、網をもってこいよ。網なら何十匹でもひとすくいだ」
「きゃあ、ぬるぬるしてる」
悲鳴と歓声と嬌声が川縁を飛び交う。
銀次は思わず橋の途中で足を止め、楽しそうな光景をしばらく眺めていた。
一人の男の子が釣り上げたボラを、水を張った桶に入れた。それを見たとき、銀次はあることを思いつき、土手を下りていった。
「坊や、その魚、売ってくれねえか」
「……いいけど」
男の子に小銭を渡した。
ほかの子たちも、何事かと集まってきた。
「この桶も貸してもらうぜ」
「いいよ」
銀次は角樽の栓を抜き、栓を鼻につけて嗅いだ。特段、変なにおいはしない。それから、樽の酒を桶の中に少し注いで見守った。
豊楽座を出たあと、ずっと気持ちの奥にわだかまっているものがあった。
おりんが、雪之丞本人に間違いなく手渡ししてほしいとしつこいほど念を押したことが気になっている。
雪之丞があれほどまで頑なに拒んだこともひっかかる。
それで、酒になにかあるのではないかという疑念がわいてきた。思い過ごしかもしれないが、確かめてみないと気が済まなくなっていた。
桶のなかをゆったりと泳いでいたボラが、しばらくすると、すさまじいいきおいで廻りはじめた。そして、突然全身を痙攣させて苦しみ、まもなく動かなくなってしまった。
ボラは、腹を上にしてぷかりと浮かんだ。
桶を覗き込んでいた子供たちから悲鳴が起こった。
三
このまま家に帰るわけにもいかなくなり、桶と角樽を抱えて八丁堀に足を向けた。北町奉行の定町廻り同心、平井文史郎の屋敷である。
団扇片手に縁先に出てきた文史郎は、すでに部屋着になっていたが、布団にはまだ入っていなかったようだった。
「夜分、申し訳ありません」
「よお、久しぶりじゃねえか」
「へい」
「とんと顔を見せやしねえ。つれねえ野郎だぜ」
銀次はたのまれ屋を口過ぎとしているが、じつはもう一つの稼業を持っている。岡っ引きである。文史郎から手札と十手を受けたが、
岡っ引きを専業とすることも、子分や手先を抱えることも嫌って、探索を命じられたときはいつも一人で動くから、実態は下っ引きと変わらなかった。
銀次が岡っ引きであることはおおぴらにしていないので、家主以外は、近所の者もおなじ裏店の住民も知らない。
「じつは、厄介ごとがありまして」
銀次は無沙汰を詫びて、角樽と桶を差し出し、おりんの一件を伝えた。
「これがその酒か」
「へい。魚が死んだ桶も危ないので坊主に桶代を渡して引き取ってきました」
「物はなんだ。砒霜(ひそう)か斑猫(はんみょう)か鴆毒(ちんどく)か附子(ぶし)か」
「そいつはわかりませんが、手に入れやすいのは、砒霜か附子でしょうか」
「猫いらずの石見銀山てのもあるぞ」
「石見銀山は苦みがあるので、酒に混ぜても気づかれてしまうおそれがあります。それに、飲んだ量が少なかったときは確実に死なすことができません」
「それにしても毒飼い(毒殺)とは穏やかじゃねえな」
「へい」
「りんという女、どうやって毒を手に入れた」
「さあ……」
「そもそも、その女はどこのどいつだ」
「明日にでも、三十三間堂町の伊勢屋を当たってみようと思っています」
「その女が頭取(主犯)とは限らねえぞ。誰かの指図で、毒入りとは知らされず、おまえの所に持ち込んだだけかも知れねえ」
「さようですね」
「ところで、その役者は歌右衛門の弟子といったな?」
「へい」
「歌右衛門は大芝居の役者だ。その弟子がどうして宮芝居に出てる」
「さあ……どういういきさつなんでしょうかね」
「いずれにせよ、伊勢屋に当たってみてからのことだな」
「へい」
八丁堀の組屋敷を出て暗い道を歩き出したとき、どこかで五つ(午後九時)を告げる時の鐘が鳴った。
遅くなってしまった。今夜は、やえのところに行くのはあきらめよう。
作品名:りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作) 作家名:加藤竜士