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りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)

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 小粒金四枚といえば一両で、大工の日当の十日分にもあたる破格の報酬である。
「お使い物を届けるだけでこんなには……」
「いまお話ししたこと、だれにも言わないという約束料もふくめての代金ということでどうでしょう」
「承知いたしました」
 と銀次は頭を下げた。
 おりんは立ち上がり、戸を開けかけたところで振り返って、
「今の話、他人様にはくれぐれも内密に」
 念を押した。
「ご心配なく」
「お使い物、まちがいなくお届けねがいますよ」
「はい」
「まちがいなくご当人の手に渡してくださいね」
「承知いたしました」
 女が帰るとすぐに、出かける用意をはじめた。
 庭仕事や家の掃除など、たいていの仕事は、御納戸色に紺縞の着物と紺の股引きと決めている。着物の尻をからげ、柿色の長半纏を羽織る。半纏の背には大きな丸のなかに銀の一文字。
 しかし、花形役者に届け物となるとそうもいくまい。黒足袋から白足袋に履き替え、着物の裾を下ろし、羽織を羽織った。これで、材木問屋の手代くらいには見えるかも知れない。
 角樽を提げて家を出た。湯島天神までは、小半刻(三十分)ほどだろう。
 明るい日差しが町にあふれ、行き交う人々の表情も心なしか和やかである。梅雨にはまだ間がある心地よい風が頬をなでる。
 これを届けたら、ひさしぶりにやえの顔でも見に行くか、と銀次は思った。
 一年ほどまえになるだろうか、頼まれ屋の注文で家移りの手伝いを頼まれ、家財道具を運んでの帰り、御蔵前通りを元鳥越町に向かって歩いているときだった。元旅篭町にさしかかったあたりで、突然雨が激しく降り出した。
 あわてて目の前の両替屋の軒下に飛び込んだ。雨足はますます激しくなり、いくら待ってもやみそうになかった。
濡れて帰ろうかと思いはじめたころ、
「銀ちゃん?」
 となりで声がした。
 振り向くと、さきに雨宿りしていた女が長身の銀次をのぞき込むように見上げていた。一重の目が切れ上がった、
さっぱりした顔立ちの美人である。
 知らない顔だし、親しげに呼びかけてくる美人にも心当たりはなかった。
「銀ちゃんでしょう? やっぱり銀ちゃんだ」
 笑うと端正な顔立ちに温かさがひろがった。齢は二十三、四だろうか、桜色の鮫小紋の小袖に黒地の帯を締め、紫色の長袋を抱えている。中身は三味線のようである。
「あの……どちらさんで?」
「やえよ、富岡橋のそばの五右衛門店の」
 銀次は子供の頃、深川の佐賀町代地に住んでいた。女はそのときおなじ町内に住んでいたやえだった。
「おやえか?」
「思い出した?」
「見違えた。あのころのしょんべん臭いおやえとは大違いだ」
 目元や微笑んだ口元に子供の頃の面影が見えた。
「やだ。あれからもう何年たったと思っているの」
「そりゃそうだな。稽古の帰りか?」
 三味線を見て聞いた。
「そう」
 数軒先に傘屋があるのを見つけて、雨の中に飛び出し、傘を買ってすぐに戻った。
「家はどこだ」
「諏訪町よ。吾妻橋のそばの」
「送って行こう。大事な三味を濡らしちゃいけねえ」
「悪いからいいわよ。やむまで待ってるから」
「遠慮するな。おれは今日の仕事はしまいだ」
 二人は傘を差して雨の中を歩き出した。
 道々話すうちに、やえは清元の師匠であることがわかった。今日は稽古をつけてもらってきたのではなく、弟子の家に出稽古に行った帰りだったのだ。
 三味線とやえを濡らさないように傘を差し出していたので、大川端にある一軒家に着いたときには、左半身がずぶ濡れになっていた。
 それに気づいたやえが、雨が上がるまで休んで、着物を乾かしていけといった。勧められるまま家に上がり込み、出された酒をちびりちびりとやるうちに話がはずみ、気が付けば夜も遅くなって、そのまま泊まって行くことになってしまった。
 その三刻(六時間)ほどのあいだに、二十年の空白はたちまち縮んだ。幼なじみはたがいにうち解けあい、男と女の関係になるのに間はいらなかった。
 その夜、雨は朝までやまなかった。
 その日をきっかけに、ひと廻り(七日)に一度は諏訪町の家を訪ね、泊まるようになった。
 惚れ合っているし、いっしょになってもいいと今は思っているが、たがいに口に出すことはなかった。やえのところには、
美人の師匠目当てにせっせと通ってくる男弟子が大勢いる。その御月並み(月謝)で暮らしは潤っている。
銀次の存在で男弟子が減り、やえの暮らしを脅かすことになるのは望むところではなかった。
 だから、やえの家を訪ねるときは弟子たちが帰った時分を見計らって行くし、朝は早めに出るようにしている。
まるで間男だ、と自嘲することもあるが、これもやえのためだった。


     二
 湯島天神には東側から入ったほうが早いと思い、下谷広小路から天神裏門坂通りへと折れたのだが、それがまちがいだった。
坂道がえんえんと続き、やっと登り切ったと思ったら、さらに長い石段が待ち受けていた。湯島天神の男坂と呼ばれる急な石段である。
やっと上までたどり着いたときには、すっかりくたびれていた。
 しばらくたたずんで境内を見回すと、たくさんの人で賑わっていた。
 参拝者だけではない。鳥居のわきには水茶屋があり、おもてに並んだ腰掛け台は満席である。
 参道に沿って売薬香具売りや土産物屋の床見世が連なっていて、人々はそのまえで立ち止まり、覗き込み、買い物をしている。
右手の奥のほうには楊弓場の小屋も見える。神社は手軽に行ける行楽の場でもあった。
 そんな床見世と背中合わせに建っている大きな建家が目にとまった。裏手に回ると、芝居小屋だった。役者たちの大きな絵看板が掲げられ、
周囲には、役者の名や演し物の「白波五人男」と書いたたくさんの幟が小屋を囲むように立ち並んでいる。
 宮芝居の認可は晴天の百日に限って許されたので百日芝居ともいうが、規制が緩むのに乗じて百日の興行を繰り返し、ほとんど常打ちと変わらない小屋も多かった。
 木戸口で雑談をしている若い衆と親爺を見つけ、声をかけた。
「もし、豊楽座の方でしょうか」
「はいよ。お客さん、すまねえが、もう札留めだ。明日また出直してくだせえ」
 若い衆が言った。
 若いのが呼び込みで、親爺のほうは木戸番らしい。
 二人のすぐ後ろの札売り場には満員御礼の札がかかっている。だから一息ついているのだろう。
「いえ、雪之丞さんにお届け物で」
「ほお、剣菱か」呼び込みの若い衆が角樽を見て言った。「上物だ。預かりますからそこに置いていっておくんなさい」
「いえ、じかにご当人にお渡しするようにということなので」
「無理を言っちゃ困るよ、いま舞台の真っ最中だ」
 二人に酒手を渡して、もう一度聞いた。
「待たせて頂くわけには参りませんか」
 木戸番の親爺が酒手を袂に滑り込ませながら言った。
「そろそろ芝居がはねる時分じゃねえか?」
「そうか」若い衆が言う。「あと小半刻(三十分)ほどで終わる」
 宮芝居は夕刻七つ半(午後五時頃)までと定められている。
「それでは待たせて頂いても?」
「太夫に伝えますから、裏でお待ちくだせえ」
 若い衆が裏口へと案内にたった。
 裏木戸を入った土間で待っていると、呼び込みの若い衆が雪之丞を案内して出てきた。