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りんという女 (オール讀物新人賞最終候補作)

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「銀次さんはおいでですか。もし、頼まれ屋さん」
 考え事をしていて、おもての声にすぐには気づかなかった。
 あわてて戸口に行き腰高障子を開けると、春のまぶしい陽のなかに女が立っていた。
 細身で背は高め。瓜実顔に一重の目。化粧は薄目で、松皮の小紋の紺鼠色の小袖に藍白の無地の帯を締めている。
齢は二十六、七だろうか。大年増とはいえ、その輝く美しさに銀次は思わず身が固まった。
「手前が銀次でございますが」
 かろうじて言って、女の持っている物に目がいった。手に朱塗りの角樽を提げている。
 祝い物を受け取る覚えはない。そうか、ここに届けに来たのではないと気づくのにしばらく間がかかった。
「御頼み事でしょうか」
「はい」
「どうぞ中へ」
 間口二間の手狭な長屋に招き入れた。女は、上がりがまちに置かれた座布団をはずして腰をおろした。
「いまお茶を淹れます」
「いえ。すぐに失礼いたしますから」女はそう言って、角樽を銀次のまえに置いた。「これを届けていただきたいのです」
 朱塗りの角樽には「剣菱」と書いてある。名の知られた上等の下り酒である。
「これをどちらさんに?」
「松井雪之丞さんに」
 松井雪之丞? 町家の者の名ではないようだが、何者なのだろう。
「お住まいにお届けするんですね?」
「当人にじかに渡してくださいな」
「雪之丞さんというのは?」
「当代きっての花形役者。豊楽座の役者さんですよ。中村歌右衛門の愛弟子だそうです。ご存じありませんか?」
「不調法なことで相済みません」
 もちろん歌右衛門は知っているが、雪之丞という名ははじめて聞いた。
 女は、つづけた。
「宮芝居の役者さんですよ。いま、湯島天神でやっています」
 江戸の芝居小屋は、中村座、市村座、森田座の江戸三座だけではない。
 それら官許の大芝居より格は落ちるが、木戸銭も安く手軽に見物できる小芝居というものが数多くある。
小屋がけの小規模な芝居小屋である。大芝居のように櫓を上げることも回り舞台や引幕を使うことも許されず、
かわりに緞帳を用いたので緞帳芝居ともいった。小芝居のなかでも神社や寺院の境内に小屋を出しているものを宮地芝居とか宮芝居とかいう。
「あの……あなた様は?」
 銀次の前に座った美しい女は、深川三十三間堂町の材木問屋伊勢屋の内儀、りんと名乗った。たしかに大店の内儀らしく、
着ているものも見るからに上等で風格さえ感じられる。この貧乏長屋にはそぐわない輝きを放っていた。
「湯島天神の境内で小屋を張っている豊楽座の松井雪之丞さんにお届けするのですね?」
「そうです。芝居小屋のどなたかに頼むのではなく、じかにご当人に手渡していただきたいんです」
「ご贔屓にしている役者さんですか」
「はい」
「ご用命はわかりましたが……」
 腑に落ちないことがあって、言いよどんだ。
 銀次は「頼まれ屋」である。ここ鳥越明神裏、元鳥越町甚平店に移り住み、表の腰高障子に「たのまれ屋銀次」と屋号を出して、
もう一年にもなるだろうか。町々に客寄せの引き札(ちらし)も配っている。
 伊勢屋の内儀が町で見たという銀次の引き札にも、「探し人、家移り手伝い、草刈、草引、家作修繕、家掃除、留守番、家事手伝い、荷物運び、病人やお年寄りの介添え、そのほか、よろずなんでも請け負いマス」としている。
 その文言どおり、頼まれれば何でも請け負う。これまで、老人の茶飲み友だち捜し、身の上相談、恋文や付け文の届け、墓参りの代行など、一風変わった頼み事も数々あったが、すべて応じてきた。それにくらべれば、これは風変わりな注文というわけでもなかった。
「でしたら、あなた様が行かれたほうがよろしいのではありませんか? そのほうがお気持ちも伝わりますし」
「……そうもいかないのです」
「それはまた、どうして」
 おりんは急に目を伏せ、黙り込んだ。
 なにやら事情がありそうだった。
「お客様の内証は、決して外には漏らしません。それを鉄の掟としております」
「お話ししなければ、届けていただけないのでしょうか」
「『なんでも頼まれます』と看板も出しておりますし、引き札にもあるとおり、お頼みごとは何でもありがたく承ります。
ただ、これはお相手のある用向きでございますから、おりんさんがご自身で届けられない訳を教えておいていただきませんと、何か聞かれたとき困りますので」
 実は、その裏には、この用件が御定法に触れたり、犯科の手伝いとなるようなことではないか確認しておく意図があった。
 おりんは唇をかむように固く口をつぐんだが、やがて伏し目がちに話し出した。
「実はわたし、雪之丞さんとはわりない仲だったのです。お恥ずかしい話ですが、夫のある身でありながら、
本気で懸想してしまったのですよ。逢瀬を重ねるたびにどんどん好きになって、離れられなくなってしまいました。
 ですが、雪之丞さんは人気役者です。女の人はよりどりみどり、夜ごと相手を替えて遊んでいました。そんなこと、はじめからわかっていたことです。でも、雪之丞さんと逢瀬を重ねるうちに、自分がひどい焼き餅焼きだとはじめて
思い知ったのです。それで、ほかの女の人を抱いてくれるなと頼みました。もちろん、そうはいきません。口争いになり、とうとう、わたし、言ってはならない言葉を吐いてしまったんです。河原者風情が、って」
 銀次はどことなく違和感を覚える。金持ちの内儀や大店の娘、身分のある御女中が役者にはまり、淫らな関係にのめり込むなど、よくある話だが、目の前の品のある楚々とした婦人とは、どうしても結びつかないのだ。
河原者風情などという汚い言葉も似合わない。感情を抑えた物静かな表情の裏には、窺い知れない燃えたぎるものが秘められているのかも知れない。女はわからない、と銀次は思った。
「だから、もう会うことは叶わないのです。ただ、最後に、一時でも女の仕合わせを教えてくれたあの人に、お礼を言いたいのです。ささやかながら、これがそのしるしです」
 銀次はあらためて言った。
「お話は伺いました。お届けいたします」
「よろしくお願いします」
「言づては?」
「いいえ。何も言わなくても、あの人にはわかるはずです」
「伊勢屋のお内儀からということでよろしいですね?」
「名前も無用です」
「名前もいわない?」
「この伊丹の銘酒は、赤穂浪士が討ち入り前夜に酌み交わしたお酒だそうです。いつだか雪之丞さんがこのお酒を飲みながら、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助を演じるのが夢なんだと打ち明けてくれたことがあります。だから、名前など出さなくてもわかります」
「名前を出さなくてよろしいのですね?」
「はい」
「承知いたしました」
 おりんが話を打ち切るように言った。
「手間は先にお払いいたします。いかほど?」
「お届けだけですから、二百いただきましょうか」
 銀次は、中身によってひと仕事の料金を二百文から五百文くらいにしている。手当の高い大工や左官の日当が五百文くらいだから、二百文の手間はまあ妥当といえるだろう。
「ではこれで」
 と、おりんは紙の包みを出して銀次のまえに置いた。
 中身をのぞいてみると、なんと、小粒が四枚も入っている。