Ravenhead
「せっかくの休みやのに。朝のサイレン、関係あるん?」
「せやな」
浩義が短く返事したとき、里緒菜は何か言いかけたが、春香があらかじめ決めたレストランに入り、四人で昼食を食べ、春香が浩太に手を引かれながら漫画のコーナーへ駆け込んでいくのを見届けて、ようやく口を開いた。
「兄ちゃん、あいつなんで二十キロも走って、ここまで来たんかな?」
里緒菜は、昔から兄にべったりで育った。浩義は、小さいころから何かをターゲットにする能力に長けていた。相手が虫でも下級生でも、浩義が定めたターゲットは、羽をむしれば逃げ回り、ランドセルを軸に引っ張りまわせば泣き叫び、好きなように痛めつけることができた。浩義はのど飴を舌の上で転がしながら、里緒菜の、計測されて造られたような整った横顔をちらりと見た。
「人間、案外しぶといもんやな」
「てか、死んだか確認せんかってんな」
里緒菜は笑った。今回、出世頭の浩義のために、朝戸家の全員が役割を果たした。父の孝太郎が島野快斗を見つけ、関係者の名前を聞き出した。快斗は浩義の手に渡り、それから一か月後、快斗が吐いた名前の中で唯一素性の分からなかった男が、一斉取り締まりの網にかかった。違反内容は信号無視。対応したのは里緒菜の同期だったが、違反切符のコピーと車の種類、ナンバーは、里緒菜から浩義の手に渡った。
「兄ちゃん、所轄にコネある?」
痛いところばかりずかずかと突いてくるのは、妹ならでは。浩義は苦笑いを浮かべた。
「ないな。あいつが骨バラバラの状態でここまで来たんは、おれが手出しできんようにするためやろうな」
「人の恨みなんか、買うもんやないね。職業柄、無理か。休暇っていつまで?」
里緒菜はそう言うと、ショートカットの髪を揺らせながら笑った。障害物を縫って走る白バイのイメージを、そのまま人間に当てはめたような、鋭く無駄のない目つき。浩義は言った。
「一週間丸々取ったよ。おれはもう何日か、こっちに残る。問題は、春香と浩太をどうやって納得させるかや」
「頑張って。でも、その方がいいよ。わたしは今日戻るけど、また連絡して」
里緒菜が言ったとき、春香と浩太が漫画の入ったビニール袋を手に店から出てきて、浩義は手を振った。二人の前では禁煙なのだから、一服しておけばよかった。そう思ってポケットに無意識に手をやった浩義は、ジッポライターがないことに気づいた。
滲んだ汗を振り払いながら帰ってくる海知の姿に気づいた島野は、目が合う前から小さく頭を下げた。ひのき荘の入口は蔦が絡んで酷い有様だから、もたれかかることができない。何のルールも守らず粗大ごみとして出された冷蔵庫が前に置きっぱなしになっていて、そこが島野の定位置だった。海知は島野に向かって細い顎をしゃくると、言った。
「おう、お疲れ」
島野はレガシィの鍵を返し、額に汗が浮いている海知の顔を見ながら、言った。
「ありがとうございました。お昼、食べはったんですね」
海知は早食いで、無酸素運動をするような勢いで食べる。だから食べた後に汗だくになるのが常で、少し苦しそうに見えるのは、量で勝負する厚生食堂に行ったからだろう。島野がそこまで考えたとき、海知は言った。
「ニラ玉」
歯に挟まったニラの破片を舌で取り除こうと顔をしかめ、海知はしばらく抽象画のように不自然な表情を浮かべたまま固まっていたが、不意に島野の腹をつついた。
「お前、昼飯は?」
「食べてきました」
島野が笑顔で言うと、海知は一〇三号室のドアを開け、島野を手招きした。家の中に呼ばれることは、あまりない。強盗の打ち合わせをするのは、大抵レガシィの車内だ。島野は頭を下げながら海知の家に上がった。海知は自分の部屋に上がるなり『くさっ』と叫び、窓を全開にした。部屋には雑誌が乱雑に置かれているが、掃除自体は行き届いている。ただ、海知が掃除機をかけている姿というのは、どうにも想像できない。そう思いながら、島野が用件を待っていると、海知はパソコンの電源を入れて、インターネットニュースの記事を開いた。しばらくスクロールしていたが、突然手を止めて目を見開くと、言った。
「遺体で発見。飲食店……、ジューギョーイン? 島野快斗。これお前の兄貴ちゃうん?」
名前が出るのが、こんなに早いとは。島野は驚きながら、うなずいた。
「そうですね」
「遺体で発見て、どないなっとんねん。殺されたんか?」
海知のこめかみに血管が浮き出していることに気づいた島野は、思わず身構えた。はめ込み式の頭脳がガタガタと揺れ出している。
「なあ、殺されたんか? おい!」
海知の左足が、神からの啓示を受けたように貧乏ゆすりを始め、足元にあるプラスチックのごみ箱が倒れた。島野がそれを起こそうとして屈みこむと、海知は先に手で拾い上げて、開きっぱなしになった窓から外へ放り投げた。
「ごみ箱なんかどーでもええわ、おれに返事せえよ。なあ、お前の兄貴は、殺されたんか?」
「はい、そうです」
島野の答えにショックを受けたように、貧乏ゆすりが高速になり、肩を掴まれた島野はその手から逃れようと体を捩ったが、海知の口から嗚咽が漏れていることに気づいて、力を抜いた。
「あの、泣いてます?」
「お前、人の兄貴をなんやと思っとんねん。そんなもん、許せるか? それで、車貸してくれ言うてたんか」
海知は目にうっすらと浮いた涙を拭うと、島野に言った。
「心当たりはあるんか? こんだけ長い時間おったんやったら、話聞けたやろ?」
タガメ以外には会っていないが、十分すぎるぐらいの情報を得た。タガメは断言こそしなかったが、ジッポライターに刻まれた文字が答えとみて、間違いないだろう。島野は小さく息を吸い込み、跳ねまわる心臓を抑えようとしたが、一度確信したことは簡単に覆せなかった。おそらく快斗は、警察の協力者だった。用済みになって、タガメを殴ったのと同じ相手に殺されたのだろう。島野がそう思ったとき、しびれを切らせた海知が言った。
「へーんじ!」
「あ、すみません。朝早い時間帯やったんで、目撃者とかいてないんですよ」
「記事に書いてんぞ、タクシーから降りてバターンて倒れたって。目ん玉ついてなかったら、こんなんどうやって確認すんねん。目撃者おるやんけ。お前こういうときこそ、正直にいけや」
海知はそう言うと、跳ねるように立ち上がった。折り畳み式ベッドを片付け、薄く埃の積もったスペースが空いたところで、言った。
「ポケットの中のもん、全部出せ。身体検査や」
島野は渋々、財布やスマートフォンを出していったが、ポケットの中でジッポライターを掴んだときに、手の動きを止めた。しかし、隠し通すことは難しいし、隠していたことが分かったら痛い目に遭うのは目に見えている。島野がジッポライターをスマートフォンの隣に並べると、海知は眉をハの字に曲げた。
「お前がジッポ?」
拾い上げて、光にかざしながら観察していた海知は、エングレーブの文字を見て目を見開いた。
「あさとって、書いてありますね。これ、あのご老体のポリさんか?」