Ravenhead
朝戸孝太郎が配属された交番は、ほとんどの警察官にとって『死刑宣告』のような滝岡交番で、ヒビだらけの建屋は、真っ黒な粘り気のある海を背に、最後の砦のように赤色灯を灯している。朝戸家からは二十キロほど離れていて、住宅街とは空気自体が異質な、港湾地区。交番勤務は二十四時間気が抜けず、夜間こそ見た目は無人になるが、休憩で少し仮眠を取るといった、平和な交番なら当たり前にできることが、ここでは不可能に近い。仮に、十五秒で睡眠に入って、五秒で起床することが可能な人間なら、少し目を瞑る余裕があるかもしれない。朝戸は、最初から仮眠を諦めていて、休憩時間でも、弁慶のように立番をしていることがあった。港湾道路は碁盤目のように通っているから、交番の前をわざわざ通る人間はいない。しかし、ブレーキ音や怒鳴り声、ちょっとした衝突音のような、裏に引っ込んでいては気づけない音は、あちこちで鳴っている。近年の問題は、近辺の工場地帯が観光地化していることだ。勝手を知らない車が昼から夜まで、ひっきりなしに出入りしている。昼はスマートフォンで自撮り、夜は三脚を立てた一眼レフの軍団が集まり、特に夜間は、それが武器を持った輩なのか、区別がつかない。
パトロールの折り返し地点に建つ展望台のビルは、夜になると一番目立つ目印になるが、昼間はその周りの壁に書かれた落書きの方が目立つ。駐車場からビルの入口までは、数百メートル。この辺をよく知っている人間なら無意識にやることだが、昼間でも鞄はしっかり握りしめておいた方がいい。横断歩道の前で信号待ちをしている親子は、ビルの落書きの多さに少し驚いているようだった。子供と目が合い、朝戸は歯を見せて笑顔を作った。子供の率直な笑顔に、少し遅れて母親の礼儀正しい笑顔が続いた。
「あの、すみません。レストランって、平日やってますよね?」
母親が言った。朝戸はうなずいた。ちょうど、十一時を回ったところだった。
「十四階にありますよ。お昼休みの時間帯は中の人が食べにくるんで、今の内ですよ」
「よかったー、ありがとうございます」
母親がぺこりと頭を下げ、朝戸が笑顔を返したところで、親子とは反対側から声がした。
「お巡りさん、メシっすか? 一緒にどうすか?」
朝戸は、親子と逆の方を向いた。ひょろりとした長身に、気弱そうでいて焦点の合っていない目。海知アキラ。
「あんた、歩きは珍しいね」
朝戸が言うと、海知は言いたいことが百個は浮かんだように喉を鳴らしたが、梅干を噛んだ直後のような表情で押し殺した。
「車ねー、人に貸してるんすよ」
「あんたは、歩きの方がいいよ。もう免許危ないやろ?」
朝戸が言うと、海知は展望台のビルを見上げた。
「自分、あれがいいっす。かつ丼。キャツ丼ね」
反対側で、子供がくすくす笑っている。この界隈の『事情』を知らなければ、海知は少しネジの飛んだ、三十前の面白い男に見えるかもしれない。実際語彙は多いし、その飄々とした風体も一役買って、漫才師のように見えるときもある。しかし、本質は犯罪者であり、一般人と混ざってはいけない人間だ。朝戸は港にぽつんと建つ食堂を指差した。
「厚生食堂行くか? コーヒーぐらいやったら奢ったんぞ」
「いや、キャツ丼」
海知の声に、子供が声を出して笑ったが、母親は少し青ざめていて、信号が青になるのと同時に早足で子供の手を引いていった。海知はわざとらしく敬礼をすると、朝戸に言った。
「港湾地区全体の保全、ご老体にて、ご苦労様です」
「しばくぞ」
朝戸がじっと見ていると、海知は『キャツ丼』を求めるように、やや大きな声で鼻歌を歌いながら厚生食堂へ歩いていった。歌うのはいつも『手のひらを太陽に』だが、歌詞は海知が勝手に改変している。
『奴らは今も、生きている。生きているから、殺すんだ』
それが誰のことを指すのかは誰も分からない。偶然、目が合ったときに自分がその対象になることは、十分にあり得る。朝戸はそれとなく港の中を見て回った。もしかしたら、レジでひと悶着あるかもしれない。海知は二十一歳のとき、港の警備員の仕事にありついて、この地域に越してきた。港湾労働者向けのアパートに入居して半年が経ったころ、ある日突然、『おれが全部借ーりた』と宣言し、上階と両隣の住人をトイレ用のスッポンで殴り倒した。当然捕まり、被害者達の出していた騒音も相当うるさかったことから酌量され、執行猶予がついて解放された日に、自分が『借りた』と宣言した部屋を一軒ずつ回り、最後のひとりはドライバーで片目を突いて失明させた。それが相手の持ち出した武器で、海知も刺されていたことから、また少しだけ酌量され、今度は三年の実刑判決を受けた。そして三年後、海知は自分がかつて住んでいた部屋の前をうろつき、管理人に頭を下げて『部屋に誰かいるんすけど』と言った。住人は家賃を割り引かれて上階の角部屋に引っ越し、海知は元の部屋に入居した。噂を聞きつけて真上の部屋はすぐに空になり、両隣もほどなくして引っ越した。上階の角部屋の住人は漁船の乗組員で、しばらく帰る予定がなく、今は海知だけが住んでいる。この界隈は、物事を解決する手段として、暴力を第一候補に持ってくる人間が集まっている。その仕組みは単純で、管理人も自分が『失明』する方を恐れている。なぜなら、海知のような人間は、司法で裁かれても必ず帰ってくるからだ。
そんな人間達を相手にする朝戸家は、『メシ』で情報網をつないできた。勤務中でも、『ちょっと来い』と言って、一緒に飯を食う。半年前、性質の悪い客に連れ回されて、青あざを作っていた覚せい剤中毒の男がいた。滝岡地区のひときわ荒っぽい地域でバーテンをしている男で、島野快斗という名前だった。性質の悪い客を追い払い、安食堂でひと晩、愚痴を聞いてやった。快斗は誰も知りえない事情や、知ってはいけないことまでぺらぺらと、対面に座る朝戸に話した。覚せい剤を融通してからは、さらに従順になり、浩義に引き渡すまでに、一か月もかからなかった。朝戸は、浩義が自分から受け継いだ血のことを考えながら、空を見上げた。本当なら脈まで測るべきだが、素手で殺したのは評価できる。
厚生食堂の中で物が飛び交う音が聞こえることもなく、しばらく様子見をしていた朝戸は引き返した。海知が住む悪名高い『ひのき荘』の前を通り、駐車場の車をチェックしているとき、不器用に車庫入れしているレガシィが目につき、朝戸は反対側の入口まで外周を回り込んで、レガシィの真横に出た。運転席に座るのは、快斗の弟。海知の車に乗って、一体何をしていたのか。朝戸は声をかけるか迷ったが、元のルートへ戻った。
「おったー」
浩太が未確認生物でも発見したように言い、春香と里緒菜が振り向いた先に、浩義がいた。その所在なさげな様子に里緒菜が笑い、言った。
「兄ちゃん、何そのオーラ」
ショッピングモールの明るい光に照らされると、浩義は余計に顔色が悪く見えた。春香が苦笑いを浮かべながら、言った。
「もっと野菜、足さなあかんわ。お父さんの顔だけ、光跳ね返してないもん」
浩義は、光から逃げるような早足で、三人に合流した。浩太の頭を撫でると、春香に言った。
「ごめん、遅くなった」