Ravenhead
アパートの階段を上がるところで、薬局の店員とすれ違うが、十野は進路を譲ったことがなかった。面と向かってなら、ほとんどの相手が道を空ける。身長百九十センチ、体重は百二十キロ。自分用の棺桶は特注になるだろう。十野はそれを、竹田と話すときのお決まりの冗談として使ってきた。高校時代の写真では、竹田より背が高いだけで、横幅はさほど変わらないが、今は違う生き物のようだ。部屋に戻ったとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
『今日、ワイン届くんやけど。オンラインどうかな』
そう言えば、前回のオンライン飲みからちょうど二週間が経つ。竹田のメッセージは絵文字もなく簡素で、世間話が占める割合は少ない。かおりを亡くしてからの数年は、この関係は従前通りだったように思える。それは去年あたりから徐々に変化していった。人生で、今まで築いてきたものの上に腰を下ろすときが来たのだ。座り心地を変えるチャンスは、もうない。分からないのは、ストレスの原因でありながら、なぜこの誘いを断れないのかということ。指が勝手に動いて、『今日も通夜あるから、明日の夜がいいかな』と返信していた。それに対する返信は『お疲れさま、ほな明日の夜』。無駄がなく、極めて常識的。かつて同じボロアパートの三〇二号室と、三〇六号室に住んでいた二人の少年。今は、役所の課長と葬儀屋。十野は将吉が出しっぱなしにしているヘッドホンをフックにかけて、寝室に戻った。自分の意思とは関係なく、この関係の間に大きな仕切りが下りてきて、問答無用で断ち切ってくれればと思うときがある。
鬼電。島野のスマートフォンに、十秒おきに違う番号から交互に着信が入る。両方とも海知からで、二台の携帯電話から交互に鳴らされている。長めに空いた間へ滑り込むように島野がかけなおすと、出るなり海知は言った。
「殺す」
「すんません、ちょっと長引いてしまって」
「どこおんの? マジ、どこ?」
「今、ちょっと走り回ってる途中で。昼までには返しますんで」
元々昼までにという約束だったが、それは到底言い出せない。島野が反応を待つまでもなく、海知はわざとらしくため息をつき、息を吐き切ってからも続けたことで、激しくせき込み始めた。
「大丈夫ですか?」
島野が言うと、海知はか細い声で『殺す』と呟いた後、息を整えて、普段通りの口調に戻った。
「正直に言え。どこ?」
「黒川の近くです。商店街とかある。ちょっと昨日から兄貴と連絡が取れなくて、探してたんです」
「あー、そう。心配やね」
島野は少し表情を緩めて、うなずいた。海知は、分かりやすい怪物ではない。本気でないときに『殺す』を連発する以外は、ほとんどの言葉が本音だ。恐らく、『島野の兄』のことを本当に心配している。もちろん、死んだとは言えない。その先の反応の予測が全くつかないからだ。強盗メンバーとしてお役御免になる可能性もある。ドラム缶サイズに折られた死体になる覚悟があるなら、それも悪くないが。
「ほんま、お借りしてすんません。めっちゃ速いですね、この車」
「シーケンシャルツインターボやからな。ご安全に!」
横文字の意味は分からなかったが、島野は海知から解放されて、スマートフォンを助手席に放り投げるように置くと、額の汗をぬぐった。レガシィを停めたコインパーキングはほとんど車がおらず、閑散としていた。時間は、九時半。強盗の下見をする以外、こんな時間に活動したことはない。島野はレガシィから降りると、繁華街の方へ歩き始めた。放置自転車によりかかるように立つ、ほとんど枯れ木のようなジャージ姿。タガメはわき腹を庇うように俯いていたが、島野に気づいて顔をしかめた。
「恭介くんか。今日は知り合いによう会うな」
「お久しぶりです。二日酔いですか?」
島野が言うと、タガメは首を横に振るだけで、答えなかった。浅く息を吸い込んで整えると、汗の浮いたごま塩頭を撫でつけて、言った。
「お兄さん、残念やったね」
「正直、覚悟はしてました。シャブをようやめんかったんで」
「どないして、ここに来た?」
タガメが言い、その右手が煙草の形になっていることに気づいた島野は、メビウスを一本差し出した。そのまま火を点けようとすると、タガメは手で断りを入れ、ライターをポケットから取り出すと、自分で火を点けた。深く煙を吸い込み、タガメが少し姿勢を正したところで、島野は言った。
「昨日の夜、呼ばれたつって、出たきり帰らんかったんです」
タガメは灰を地面に落とし、小さくうなずいた。
「野暮用やね。恭介くん、今は誰とつるんどるんや?」
海知とチクロンだが、そんなことはぺらぺらと話せない。タガメは住宅街と商店街を中心に張り巡らされた毛細血管のようなものだ。情報は、あっという間に広がる。島野は笑顔でやり過ごしながら、その途中で強引に方向転換した。
「あちこち飛び回ってます」
「そうかいな。屋根伝いか?」
タガメはスリが専門だ。しかも、紙幣を何枚か抜いたら再び相手のポケットに返すということまでやってのける。時計職人で、そのしわくちゃの手先は、どんな隙間が相手でも自由自在に動く。
「まあ、教えは守ってますよ」
「俺はなんも教えとらん。お前が勝手に覚えて、盗んでいったんやろが」
タガメは言いながら、笑った。ようやく本調子に戻ってきたようにも見える。島野は同じように笑いながら隣に並ぶと、メビウスを一本くわえて、使い捨てライターで火を点けた。殴られていることには気づいたが、タガメにもプライドがあるだろう。快斗にもあったはずだ。島野がそう思って表情を固めたとき、タガメが言った。
「覚悟、できてたんか?」
「いいえ。誰に殴られたんですか?」
お互いのプライドを守る紳士協定は、あっさりと終わった。島野がタガメの横顔に視線を向けると、タガメは首を横に振った。
「ほっとけ。あとは警察に任せや。俺も深いことはよう知らん」
「この辺で起きることなら、何でも知ってるでしょ?」
「あれは、ここで起きた話やない」
タガメは言い、半分以上残っているメビウスを口元から離した。島野は言った。
「どういう意味ですか?」
「タクシーでここまで来て、死んだんや。理由は分からんが、別の場所でやられとる」
タガメの言葉を暗記するように、島野は宙を見上げた。暗記しなければ頭から滑り落ちていきそうなぐらいに、理屈に合わない。しかめ面を作って、タガメは言った。
「お前、いくつや?」
「二十七です」
島野が答えると、タガメはポケットからライターを取り出し、差し出した。
「そんな年で、しょぼい百円ライターなんか使うな。これ、やるわ」
島野はそれを受け取り、朝日に照らして眺めた。年季の入ったブロンズゴールドのジッポライター。
「ええの、持ってますね」
蓋の上面には、『H.ASATO』というエングレーブ。島野がそれを見つめていると、タガメは呟いた。
「そいつが、担当の刑事や」