Ravenhead
「事件って、どんなんですか?」
それは、誰もが聞きたいが、口に出せなかったことだった。門森はちらりと振り向いて、笑顔を向けようとしたが、村井が答えづらそうにしている間に、霧鞘は興味を失って窓の外に顔を向けていた。
「殺人事件や。っておーい、霧鞘さん聞いてるか? 君の質問やど」
クラスの半分が声を出して笑い、霧鞘はうなずきながら、窓の外を眺め続けた。商店街自体は見えなくても、その方角は分かる。村井が次の話題に移った後も、霧鞘の質問がきっかけになって、クラスはざわついていた。
引き継ぎ先は、地元の署。手続き通り、捜査一課が取り扱う。刑事部にコネはない。浩義はショッピングモールと道一本を挟んだだけの繁華街を歩きながら、煙草を探った。朝の八時半、夜の店は当然眠りこけている。風紀第一係は完全に畑違いだ。せっかく有給休暇を取っているのにと、春香と浩太は朝食の間中、抗議の声を上げ続けた。ランニングから帰ってきた里緒菜が明るい笑顔でなだめ、もうじき開くショッピングモールで買い物をする計画を立てている。
摘発までの一連の流れは、花火に似ている。人の記憶に残るのは、空中に上がる花火だけで、数か月前に河川敷の草が刈られて馴らされていても、誰も目に留めない。浩義は繁華街の中心部にある中華料理屋をやり過ごし、自販機の傍に屈みこんでいるジャージ姿の老人を見つけた。
「タガメさん、お久しぶり」
空に広がる花火の下の、できるだけ目立たないように隠された真っ暗な空間。そこには様々な人間が蠢いている。このタガメも、そのひとり。
「小銭ありました?」
「ないね。昔のと違って、隙間が狭くなっとる」
タガメは、スリの名人だ。昔は抜け目がなく、ありとあらゆる人間のポケットから、ハンカチでも財布でも、とにかく腕を試すように盗み続けていた。最近は隠居気味だが、町の事情に最も詳しいのは、この男だ。噂話好きで、聞き役と話し役のどちらもこなす。体を起こして立ち上がったタガメに、浩義は言った。
「近所で殺し、あったでしょ。サイレンで起こされたんちゃいます?」
「あー、起こされたねえ」
タガメはごま塩頭を掻きながら、呟いた。浩義は、タガメのほとんど窪んでいるような平たい腹を見ながら、言った。
「朝飯、どないですか?」
「あー、いいね」
定食屋で軽い朝飯を奢り、浩義はコーヒーを飲んだ。煙草に手をやったところで、タガメがにやりと笑った。
「おまわりさん、禁煙でっせ」
会計を済ませて元来た道を戻り、小銭を探していた自販機の前まで来たところで、タガメは言った。
「あの殺されたんは、島野のとこの兄貴やね。通報したんはクリーニング屋のおやっさんやが、タクシーでここまで来て、降りた後に倒れよったらしいわ」
「そうなんですか。その、タクシーはどうなったんでしょう」
「降ろして、行ってまいよったみたいやね。まあ、探されて色々聞かれるやろうけど」
タガメはそう言って、浩義が手に取ったロングピースの箱を指差した。
「それ、一本欲しいね。食後の一服に」
浩義は一本を差し出し、ポケットから取り出したジッポライターで火をつけ、タガメの一服を手伝った。
「ごっついガサ入れあったみたいやけど。あんた、巻き込んどったんかいね?」
浩義はジッポライターをポケットにしまいこむと、答える代わりに拳を固めて、タガメのわき腹にボディブローを打ち込んだ。タガメは体をくの字に折り、朝食と煙草を自販機の前に全て吐き出した。得られる情報は、以上。自分の体を掴んで立ち上がろうとするタガメの手を払い、浩義は実家までの道を歩き始めて、春香にメッセージを送った。
『もうショッピングモール向かってる?』
『うん、里緒菜ちゃんの運転。来る?』
『昼に合流したいかな』
浩義は返事を確認することなく、歩き続けた。見た目では区別がつかないが、打ち上がった花火の全てが合法とは限らない。そんなものは、夢物語だ。そして、祭りの後には、必ず後片付けがある。
『最後の店にも、仕込み終わりました』
二週間前、島野快斗は得意げな顔でそう言った。その表情には、役目から解放されたことに対する恐怖心が少しだけ覗いていたようにも感じる。しかし、快斗は逃げなかった。そういう勘の悪い人間は、長く生きられない。覚せい剤という自身の悪癖を断てず、半年以上も警察の手先となった快斗。あちこちの店に顔を出して、かつての仲間を裏切り続けた。全てが終わった後に、何を期待していたのだろう。努力バッジでも貰えると思っていたのだろうか。
昨晩、夜中に実家を抜け出したときは、高校生に戻ったような気がしたが、今更、筋肉痛が来ている。これでは、力の強いサラリーマンと変わらない。それでも、島野快斗の骨は長年の薬物で隙間だらけになっていて、ぽきぽきと折れた。意外だったのは、頭の骨を折った感触があったにもかかわらず、死ななかったことだ。それを見落としたのは、完全に自分の確認不足。
よりによって、こんな目立つ場所を選んでくたばるとは。
アパートの壁に寄りかかるように止められた、九十七年型のセドリックワゴン。ベージュの車体をウッドデカールがぐるりと囲う賑やかな仕様で、かおりが一目惚れした『夫婦で決めた車』だった。ひとりになって五年間、それなりに手をかけてきたつもりだったが、朝日に照らされている姿はあちこち古びていた。塗装はくすみ、スチールホイールにはうっすらと錆が浮いている。十野は腕時計の文字盤に視線を落とした。朝の九時過ぎ。将吉が学校へ行った記憶はないから、その時間帯は眠っていたに違いないが、三時間半しか眠っていないのに目が覚めたことになる。体全体が重い上に、今晩も別の家の通夜があるから、昼までには目の下のクマを取っておかなければならない。十野は目をひとしきりこすった後、ボンネットを軽く叩いた。車体の下からキジトラが出てきて、尻尾を立てながら十野を見上げた。
「おはようさん」
十野は短く言い、右手に持った皿を地面に置いた。ざらざらと音を立てるキャットフードは、適当に買ったものだ。種類は正直よく分からないし、このキジトラが何歳なのかもよく分かっていない。かおりは最後まで名前を付けず、その柄から『キジちゃん』と呼んでいた。それでもキジトラは文句を言うこともなく、よく食べる。野良らしい鋭さはあまりなく、人間社会に居場所を見つけたタイプ。食べ終えたら、ボンネットの上に乗って、昼寝をする。猫の仕事は寝ることだが、キジトラは特別よく眠る。数分も経たないうちに皿が空っぽになり、キジトラは十野の顔を見上げた。十野はその体に手を回し、ボンネットの上に乗せた。やはり、人間社会によく馴染んでいる。十野は、丸まり始めたキジトラを見下ろしながら、笑った。おれが昼まで眠っていれば、第二候補の餌場へ顔を出すだけのことだ。