Ravenhead
二人で笑った後、勝夫は眠気に逆らうように瞼に力を入れて目をこじ開け、将吉のなすがままに負けた。 学校に行く前に話せたことで、眠気混じりでも気分は晴れやかだった。将吉の耳にヘッドホンを被せると、勝夫は寝室に入った。対戦ゲームのように残り時間と体力が見えれば、人生ははるかに楽だ。
借り物の車だ。夜通し頭の中で復唱していたが、夜が明けるのと同時にハンドルさばきは覚束なくなった。サイレンを追うように、慣れない車のシフトレバーを四速に押し込み、クラッチを離すのと同時に車体ががくんと跳ねた。島野恭介は、バーテン仲間が送ってきた最後のやり取りを、何度も見返していた。
『ちょっと呼ばれた』
一体、誰に? 兄の快斗は、そういう曖昧なことは言わない性格だった。そこからメッセージに既読がつくことはなく、数時間が過ぎるころには、島野は借り物のレガシィツーリングワゴンに乗り込み、慣れないマニュアルと格闘しながら探し始めていた。快斗は、港湾地区に近い寂れた繁華街でバーを経営していて、二歳しか年が離れていないこともあって、双子に間違われることもあった。二十代後半にしては、夜を中心に回る生活リズムのせいで、快斗の方が随分と老けている。島野が就いているのも昼の仕事ではないが、夜通し起きている必要はない。福利厚生はないが、報酬は基本的に現金で手渡し。洗浄までの時間待つ必要があるときは、時計のようなちょっとした小物が臨時の報酬になることもある。島野の仕事は『強盗』。雇い主の海知アキラは二十九歳で、電気屋の店員のように気弱そうな顔をしているのに、頭のネジがあるべき場所は、全てはめ込み式でガタついている。口癖は『殺す』で、約束の時間に遅れても、早く来すぎても、オーディオの曲を変えても、同じ言葉が飛んでくる。ただ、町ですれ違っても、あの見た目からそんな言葉が飛び出すとは、誰も想像しないだろう。
海知と島野は、全国をまんべんなく飛び回り、年に数件の強盗をこなしてきた。手口は複数用意していて、ローテーションさせる。同じ車は二度と使わず、経費と考える。海知が考え出したこのシステムは、四年に渡って続いている。
特別ゲストとして、場所限定で参加するヘルプがいて、島野は本名を知らず、本人が指定した『チクロン』というあだ名で呼んでいる。島野が物品を漁る間、見張るのが仕事。ただ、チクロンは目すらほとんど出ていない覆面を被った状態で現れるから、素顔が分からない。場所柄、人を縛り上げないとじっとさせていられないこともあるが、女がいる場合は、チクロンが手を出さないよう、それとなく見張っておかなければならない。チクロンは異常だ。年齢は四十代か、少し不摂生な生活を送ってきた三十代。目を付けた女の前で腕まくりをすると、自分の身体をあちこち掻きむしって、その手を相手の口に突っ込む。噛まれて反撃されたこともあったが、本人は喜んでいた。その根っこは性犯罪者で、日常生活で相当抑圧されているのか、強盗の最中は全身で喜びを表現している。行動範囲が限られていて、複数の県をまたぐ案件には参加しないのが救い。女相手に荒っぽいことになったら、問答無用で海知が殺すか、チクロンがズボンを下ろすか、もしくはチクロンがズボンを下ろした後に海知が殺す、この三パターンしかいない。そして、どのパターンも見たことがある。
救急車のサイレンが止まったことに気づいた島野は指示器を出して、交差点を勢いよく右折した。今、こうやって走り回っていること自体、あまり二人には知られたくないが、このレガシィは海知の車だから、走行距離ですぐに分かるだろう。それでも、情報はできるだけ集めてから戻りたい。この辺りに住んでいる知り合いと言えば、タガメだ。繁華街の中華料理屋周りをうろついている、六十歳の小柄な男で、ピッキングの方法を教わった。赤い光がビルの壁に跳ね返っているのが見えて、島野はスピードを落とした。シャッターが下りたままになった肉屋の前に寄せてエンジンを切り、がらんとした商店街の中を抜けて、繁華街の路地裏を覗き込んだ。パトカーは商店街の中にも一台いたが、中には誰も乗っていなかった。さらに歩き続けると、ブルーシートを持った警官が横切っていくのが見えた。その先には、うつ伏せに倒れた、今の季節にしてはやや薄着の男。駆け付けた警官同士の会話には、業務連絡と共に世間話も混じっていた。『頭からケツまで、骨がぐらぐらや。まんべんなくやられとる』
自ら隊のひとりが、島野に気づいて言った。
「ちょっとお兄さん。事件現場やからね。ぐるーって迂回してくれへんかな。カメラとかあかんで」
「あ、すみません」
島野はそう言って、引き返した。レガシィに乗り込んで、震える手でキーを回した。あの金髪頭は間違いない。快斗だ。誰かに呼び出されて、殺されたのだ。
泣き出しそうな顔は、あくびの合図。門森が見守っていると、ついに耐えかねた霧鞘は口元を手で押さえながら、大きなあくびをした。
「あー、目が冴えるー」
「ごまかすの、下手すぎん?」
朝練をしている野球部の掛け声が聞こえてくる以外は、教室の中は静かだった。二人が黒川高校の正門前に着いたのは七時半で、部室とグラウンドだけが開放されている状態だったが、門森委員長の威光で、守衛は特別に教室を開けてくれた。霧鞘の落書きだらけの教科書は、本来習うべきポイントをことごとく外す形で賑やかになっていて、ほとんどは門森の独演会だったが、宿題の範囲は魔法のように完了していた。
「委員長さー、なんでそんな賢いん?」
霧鞘は好奇心がオーラになって滲みだしているような視線を、門森に向けた。後ろ姿では区別がつかない二人だが、椅子から慌てて立ち上がったときにガタンと音を立てるのは、決まって霧鞘の方だった。門森は首を傾げた。
「数学が得意なだけやで。国語とか全然あかんし。でも、数学も日本語で書かれてるから国語やとか、先生言うてたやん? ショックやったわー、全否定された感じ」
「言ってたっけ。いつの話? 前世?」
「先週」
八時十五分を回ったあたりから、同級生が次々と入ってきて、門森は自席の方を向いた。今は霧鞘の席に向かい合わせに座っているが、ここは森田さんの席だ。
「戻るよ。当てられたら、全力でボケてね」
朝礼の連絡事項は、朝のサイレンの話。机にだらりと突っ伏していた霧鞘は体を起こした。担任の村井は、禿げあがった頭の油を後ろの黒板に散らすように撫でつけながら、はっきりとした発音で言った。
「商店街の近くで事件が起きたそうです。通学路ではないけど、あの辺は寄らんように。犯人は捕まっとらん」
多くの生徒が住むショッピングモール裏の住宅街から高校までの最速の道は、繁華街と商店街を縫うように通る路地だが、防犯上の理由から、敢えて川を渡り、対岸の道を通って来るように言われている。霧鞘と門森も、遠回りをして通学路から登校した。村井が次の話題に進もうとしたとき、霧鞘が細長い手を挙げた。
「はい、霧鞘さん」
何人かが振り向く。クラスでの霧鞘の立ち位置は、突拍子もないことを言い出す『変わり者』で、天然と評されることもあれば、空気が読めないと言われることも多々あった。