Ravenhead
返事を待つことなく電話を切ると、海知はチャラとトンチャイの死体を事務所の裏に引きずり出した。血の跡が見えないように事務所のシャッターを閉めると、血まみれの手でスマートフォンを抜き出し、外に置かれたパイプ椅子に座って文章を考えたが、何も思い浮かばなかった。海知は、島野と将吉が一緒に写った『確保の瞬間』を送った。すぐに折り返しの電話が鳴り、十野が言葉を発する前に、海知は言った。
「おい、接近戦特化デブ。よう聞け。おれはお前の仕事をやり遂げた。ご子息は生きてる」
「どこにいてる。どうやって見つけた?」
十野の声は険しかったが、それは純粋な質問だった。海知は咳ばらいをすると、椅子の背もたれに体を預けた。
「ごちゃごちゃ言うな。おれの免許証と一緒に高校生も連れてこい。まずは、全部が揃った状態で写真を撮って、おれに送れ。場所を教えたら、三十分以内に来い。できるか?」
巡り巡って、誘拐犯に逆戻りした。しかし、今の方がはるかに状況をコントロールできている。海知は続けた。
「遅れたり、揃ってなかったら、将吉くんとはお別れということで」
十野はまだ何かを言っていたが、海知は構わず電話を切った。色々質問したいことはあるだろう。例えば、この写真は今日のものなのか、とか。考え出しても仕方のないことだ。何かを信じて突き進むしかないときもある。十野が持つ、元ヤンキーらしい暴力と平和ボケのバランス感覚。あいつなら、やってのけるはずだ。
キャンターの四トンを引っ張り出して、事務所と裏口の間を分断するように停めたとき、海知はデリカが入ってくるのを見て、運転席から降りた。島野と、相変わらず後部座席に寝転がっている将吉は、同じように不安そうな表情を浮かべていた。海知は助手席のドアを開けてスナック菓子をひと袋取ると、抱え込むように持って中身を食べ始めた。
将吉の、遠足の途中のような表情。十野は、その写真をしばらく見つめていた。両手を縛られている男は、鼻血を流している。今ここで警察に通報したら、どうなる? 写真では、将吉が乗っているバンの車種すら分からない。しかし、将吉は昨日の夕方に学校を出ている。だとしたら、今朝以外にこの写真を撮る方法はない。しばらく目を凝らせていた十野は、バンの窓にコンテナが反射していることに気づき、パソコンで地図を開いた。コンテナヤードは、この地域にはない。海側なら滝岡地区まで行けば、あちこちにある。どちらにせよ、霧鞘を巻き込むわけにはいかない。自分の子供を助けるためなら何でもする。その意志は変わらないが、そんな状況下でも線引きはある。地図からニュースサイトへ戻った十野は、立ち上がりかけた腰をもう一度下ろした。黒川地区でガス漏れ。自宅から、遺体が発見された。竹田あゆみと、竹田克之。夫の竹田高雄の消息は不明。
『夫が何らかの事情を知っているとみて』
十野は、目を見開いた。昨日の夜に起きたばかりだ。スマートフォンを手に取ると、竹田の番号を鳴らしたが、電源自体入っていなかった。竹田の自宅に引いてある電話は生きていたが、誰かが出るとは考えられない。しばらくダイヤルしていた十野は、諦めて発信を止めた。そのとき、改めて思い出した。海知の言っていた人違いとは、どういう意味なのか。竹田と名乗っていた将吉が『警官一家』に報復で誘拐されたとすれば、竹田と海知は何らかの形で仲間だということになる。
十野は身の回りの物を忘れないよう、全てポケットに入れていった。最後に、海知の免許証を財布に入れると、アパートから出てセドリックの前に立った。海知を叩きつけた後部座席のサイドウィンドウが、まだ地面に散っている。上階に住む薬局の店員が、愛車のタントカスタムにできた大きなへこみを呆然と眺めていることに気づいた十野は、言った。
「すまん、直すから見積り取っといてくれ」
セドリックのエンジンをかけると、十野は頭の中に地図を呼び起こした。
体育館と校舎の間の通路に置かれた、木製のベンチ。定位置に座る門森は、少しだけ顔色を取り戻した霧鞘に言った。
「真由、無理してない?」
「大丈夫」
霧鞘は、千晶の『一日休んだら』という提案を断り、昼に登校した。門森の心が少しだけ軽くなったのは、その顔色が思っていたよりも改善していて、少し目の下にクマは残るものの、前日に失われていたように感じた気楽さが蘇っていた。
「杏樹、わたし、家族と話してん」
「え、何を?」
門森がぎくりとして目を大きく開くと、霧鞘は否定するように手を横に振りながら笑った。
「わたし、無理して明るくしてた感じもあったから。それを伝えただけ」
そう言うと、霧鞘は購買で手に入れた野菜ジュースを飲んだ。トマトの強い風味に顔をしかめながら、言った。
「トマト配合って、これトマトやんか。パッケージに騙されたわ。でもな杏樹、人は見た目が九割九分……」
霧鞘は門森の顔を見て初めて、その両目からぼろぼろと涙がこぼれていることに気づいた。
「杏樹、泣いてる? うん、泣いてるわ。ちょっと待って、どうしたん」
門森は、中学三年生から今に至るまでの霧鞘の変遷を、ずっと隣で見守ってきた。このまま、糸が切れそうなまま突っ張った状態で、大人になっていけるのだろうかと、心配だった。二十歳、三十歳と年を取っていくにつれて、どんどん遠い存在になってしまうのではないかと、思っていた。
「やっぱり……、やっぱりしんどかったんやんか」
「しんどくはないけど。明るい方が、周りも心配せんかなって」
「いや、それめっちゃしんどいから。てかさ、人は見た目が九割九分って、急にどうしたん?」
門森は眼鏡を外して涙を拭うと、言った。霧鞘は少し神妙な顔になって、言った。
「それとは、あまり関係ないんやけど。将吉くんがな。昨日、家に帰ってないねん」
「え?」
門森が続けて言おうとしたことを、霧鞘はそれまでにあったことを包み隠さず話すことで封じた。口に出すと現実感がなく、門森の目に浮かぶ反応を見ていると、本当に起きていることなのか分からなくなってくる。そう思いながら説明を終えた霧鞘に、門森は最初に言おうとしていたことを呟いた。
「警察に行こう」
霧鞘は首を横に振った。
「脅迫状には、それはやったらあかんって」
「みんな、そう書くよ」
そう言った門森は、スマートフォンを手で包み込むように持っていたが、頭の中の考えが指に伝わるよりも先に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
朝の電話から、二時間が経過した。海知は、島野が買ってきた弁当を食べながら、貧乏ゆすりを続けていた。指笛女子高生はおそらく、学校へ行ったのだろう。二人の自撮りは夕方までお預けかもしれない。次に片付けるのは、チクロンだ。海知は弁当を半分ほど食べたところで、コーヒーゼリーを袋から出して、デリカのスライドドアを開いた。おにぎりを食べていた将吉が顔を上げ、海知は言った。
「これ、食べるか?」