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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Ravenhead

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「二人で来はった。家には誰もおらんかったんちゃうかな。覚えてる?」
 霧鞘はうなずいた。兄の名前。署名欄には父と母の直筆の署名がある。その用紙は、水をこぼした後そのまま乾いたように、しわが寄っていた。十野は言った。
「悲しんでないとか、そうしたらあかんとか。絶対、そんなことはないよ」
 霧鞘は、契約書を見つめた。二人は、自分の前では決して涙を見せなかった。代わりに、ここで泣いたのだ。用紙がしわくちゃになるまで。紙の上に、霧鞘の頬から伝った新しい涙が落ちて、字が息を吹き返したように滲み始めた。十野はティッシュの箱を差し出すと、言った。
「おれの妻ってか、将吉のお母さんは、登山の事故で亡くなった。もう五年前やけどね。近い人を亡くすと、一緒に自分の体の一部も、なくなるんよ。それを埋めようとして自分で何役もするんやけど、大人のおれでもこれだけ苦労してるんやから、難しいと思う」
 霧鞘は顔を上げて、顔の角度が変わっただけでまた悲しさがこみ上げたように、泣き顔になった。しばらくティッシュの世話になった後、意を決したように言った。
「一旦、帰ります。速攻返事できるんで、なんかあったら連絡してくださいね」
 霧鞘が出て行き、ひとりに戻った部屋の中で、十野は唸った。将吉を休ませると、学校に連絡しなければならない。霧鞘には言えないこと。海知の部屋に残された、大きな落書き。海知が見せたのは一瞬だったが、その左隅には、見逃しようのない印があった。バツ印を丸で囲った、試し書き。忘れようがない。一昨日、その話で盛り上がったばかりだ。
 あの落書きを書いたのは、竹田だ。
     
 朝八時。本来なら、門森の家の前で『オッス』と言っている時間。霧鞘は、スマートフォンに届いた、文字ひとつひとつから心配が滲み出ているような、門森の文章を読んだ。
『私があまり心配したら、余計に不安になるかもしれんから』
 わたしは、心配していることを悟られるのを心配されるぐらいに、杏樹から心配されている。どうにかしないといけない。昨日から、頭の中の半分は将吉くんのことだ。残り半分は、二年前のこと。お母さんが家にいるはずだけど、どう話したらいいだろう。十野さんのことは、話さない方がいいだろうか。様々な考えが入り混じったまま、霧鞘は玄関を開けた。靴が二組揃っていて、台所から千晶が顔を出した。メッセージでは『少し体調が悪いので』とだけ伝えた。それでも、その表情は少し険しかった。
「真由、今日はゆっくりしなさい」
 霧鞘は居間を覗き込んだ。康隆が言った。
「朝、ちょっと様子がおかしかったから。おれも休み取って、お母さんと話してた。真由、大丈夫か?」
「わたし……」
 霧鞘がそれだけ言ったところで、千晶が抱きかかえるように手を回した。霧鞘は足から力が消えていくのを感じ、その場に座り込んだ。康隆が反対側から支えたとき、霧鞘は俯いたまま言った。
「お兄ちゃんに会いたい……」
 霧鞘の体を支える二人の手に、かつて四人分だった輪の力を取り戻そうとするように、力が籠った。
       
 八時ちょうどに事務所へ現れた松虫を見て、今井は思わず席から立ち上がった。こんな朝早くに事務所にいるのは、ランニングを兼ねて出社する自分ぐらいで、次に早いのが竹田課長だ。
「おはよう、大丈夫?」
 今井が声をかけると、役所のすぐ前で幽霊に出くわしたような真っ白な顔で、松虫は首を横に振った。
「おはようございます……、眠れなくて。今井係長、コテツ日記って、知ってますか?」
「いや、ごめん。分からん」
 今井が隣席から椅子を抜いて松虫の近くに腰掛けると、松虫は浅く息をしながら、言った。
「猫の動画を配信してたサイトなんですけど。昨日、ライブ配信でその猫を殺したんです」
「え? それはショックやったね……」
 今井は、動物に関心のない人間だった。一度だけ、犬を飼うことを考えたが、それはドッグランに美人のペット連れがよく来るからという下心によるもので、実現はしなかった。松虫は、喉のひっかかりを取ろうとするように一度しゃくりあげると、言った。
「あの、多分なんですけど。その人が竹さんやと思うんです」
「んな、あほな」
 今井はそう言ったが、今日は朝の『登庁しました』というメッセージに対して、まだ竹田からの返事がないことに気づいた。いつもなら、何かしらの返事が来る。
「竹さんって、家近いんですかね」
「ひと駅やな。おれも、メールの返事がない」
 今井は社用車の鍵を掴むと、上着を羽織った。松虫は言った。
「始業までに間に合いますかね」
 家まで行き、チャイムを鳴らして、『竹さん』を着替えさせ、戻ってくる。一時間で十分にこなせる行程だったが、玄関のドアが半開きになっていることに気づいた今井は、そこから中を覗き込んで、ガスが充満していることに気づいた。階段を伝うように、二階に伸びるホースが見えた。今井は息を止めて家の中に入り、元栓が閉じられていることを確認すると、外に出た。
「ガスで息ができん、通報しよう」
 十分後に、消防車とパトカーが一台ずつ現れた。消防隊員のひとりが転げ落ちるように出てきて、二十分後にパトカーが四台と、救急車が二台、追加で現れた。警官のひとりが今井に、この家の持ち主と連絡が取れないか訊いた。朝の返事がまだ来ないと今井が伝えると、警官は言った。
「あなたの上司なんですよね? 詳しく聞かせてほしいことがあります」
 隣で震えている松虫に聞かせたくないように、警官は今井に向かって少しだけ声を落とした。
「二人、中で亡くなってる」
       
 海知はギャランでコンテナヤードに戻り、まだ里緒菜の血の跡が残る『殺人現場』を覆うように、その上へ停めた。オフコースの『言葉にできない』が中断されて、鳥の鳴き声が遠くで聞こえるだけになり、運転席から降りると、海知は体を伸ばした。二十九歳、それなりに犯罪者としてキャリアを積んできたつもりだったが、手も足も出なかった。その地区ごとに、常識がある。あの界隈では、十野のことを散弾銃でバラバラにはできないし、あの女子高生の髪を掴んで引きずり倒すこともできない。何とも理解に苦しむが、あの町では法律の立場が暴力より上だ。海知は、体に残る打ち身のような違和感を振り払うように、髪に入り込んだまま乾いた血をばらばらと剥がし、地面に落とした。すぐにでもチャラを呼び戻さなければならないが、一拍置いたほうがよさそうだ。コンビニで買い集めたお菓子の袋を振りながらデリカまで歩き、運転席を覗き込んだが、島野はいなかった。奥の仮設トイレの中でがらがらと音が鳴り、海知はその方向を見ると、首を伸ばした。元の姿勢に戻ったとき、エンジンがかかったままになっていることに気づいた。
「人が差し入れに来たったのに。節約せえや、ほんま」
作品名:Ravenhead 作家名:オオサカタロウ