Ravenhead
里緒菜が二階へ上がっていき、ドアを閉める音が鳴るのと同時に、島野は立ち上がった。誰ひとりとして、話の通じる人間がいない。死ぬ覚悟は、常に頭の中にあった。しかし、このままでは将吉も殺される不安しかない上に、それを防ごうとしている里緒菜すら、頭のネジは飛んでいる。息を殺しながら玄関までたどり着いた島野は、将吉と自分の靴が置いてあることを確認してから、デリカのキーを抜いてポケットに入れた。スマートフォンを回収し、足音を殺して階段を上がると、将吉の眠る部屋のドアノブを捻った。自分の家のように布団を半分かぶって寝ている将吉の身体をゆすり、その目が開いたとき、島野は言った。
「追手が来た。ちょっと、走るぞ。寝起き百メートル走。いけるか?」
将吉は、ついにこのときが来たかと思い詰めたようにしかめ面を見せると、うなずいた。
「よし、行こう。玄関で靴を履くまでは静かに。出たら、おれと競争や」
島野は将吉を後ろに連れて、一階まで静かに降りると、玄関で靴を履いた。ドアを開いて外の風を感じながら将吉の背中を押したとき、二階の電気が点いた。島野は言った。
「走るぞ!」
将吉は足が速かった。何度か睡眠不足の島野を追い越しそうになったが、島野はもつれそうになる足を必死に動かして、コインパーキングを目指した。甲高い空ぶかしの音がはるか後ろで鳴り響いた。バイクのエンジン。島野はデリカのスライドドアを開けて将吉を乗せると、運転席によじ登ってエンジンをかけ、出口のバーをそのまま突破した。ヘッドライトと指示器とシートベルトが遅れて追いつき、デリカの車体がまっすぐに戻ったとき、ハイビームのヘッドライトがバックミラーを突き刺した。島野は川沿いの道に折れると、里緒菜の操るバイクが追い越せないように、一車線分の道幅を目一杯使って蛇行した。将吉が後部座席で左右に行ったり来たりしながら笑った。
「すげー、なにこれ!」
「笑ってる場合か! 追いかけられてる」
島野はそう言うと、スマートフォンを取り出して海知の番号を鳴らした。発信音が鳴る前に電話を取った海知は、言った。
「しーまーの!」
「海知さん、連絡取れなくてすんません」
「どこで頭冷やしてたんや?」
それは言えない。子供を巻き込んだ時点で、海知を見限ったのだ。それは、今でも変わらない。しかし、海知が相手にしている朝戸家は、海知と同じことをやってのける上に、権力の側にいる分、悪質さはその上を行く。
「へーんじ!」
海知が叫び、その響きにどこか懐かしさを感じた島野は、滝岡地区へ向かう殺風景な国道に合流してから、言った。
「すんません」
「すんませんってなんやねん? すんませんって場所におったんか?」
「いえ、今はちょっとバイクに追っかけられてます。車一台と……、いや、車を隠したいんです。デリカなんすけど」
島野は心臓のある位置に手を当てた。もう少しで、一台とひとりの子供と言ってしまうところだった。海知はしばらく黙っていたが、名案を思いついたように明るい口調で言った。
「チャラ風に言うと、火急の事態か。オッケー、住所送るから、そこに行け。コンテナヤードや」
島野は電話を切ると、すぐに届いた地図情報を目的地に設定し、音声を最大にした。地図は、滝岡地区のほとんど海に近い場所を指していた。
地図情報が既読に変わったことを確認した海知は、ベルトにAMTスキッパーを差してシャツで隠すと、ひのき荘の裏側に回った。自分の家なのに、こんな厳戒態勢で見に来る羽目になるとは。姿勢を低くしながら廊下に入ったとき、一〇三号室のドアが大きく歪んでいることに気づいた海知は、スキッパーを抜いてドアを開けた。一〇三号室の中だけ、竜巻が通り抜けたようだ。壁は隙間なく足形が残って、壁紙ごと貫かれているのもあった。パソコンは元の場所にはなく、引きちぎられたケーブルだけがだらしなく垂れている。散らばった雑誌を手に取ったとき、その端に歯型が残っていることに気づいた海知は、部屋の隅に放り投げた。他の雑誌も同じように、噛んだ跡があった。
「キモっ」
思わず言葉が出たとき、雑誌にくまなく歯形を残すような人間は、自分の知り合いにひとりしかいないことを思い出し、海知は呟いた。
「チクロン……、お前な……」
海知は目線を上げて、壁に書き殴られた落書きを読んだ。『とおのまさよしになにをした』。そもそも、とおのまさよしってのは、誰だ? 海知はスマートフォンで壁を撮ると、肩を落として部屋から出た。日当たり具合や、周りに住人がいない静けさが気に入っていた。出て行くとしたら自分からだと思っていたが、まさか、家のほうから無くなるとは。
「ギャランに住めってか!?」
海知は、そびえ立つアパートに一度叫ぶと、ギャランに乗り込んでエンジンをかけた。
島野は、滝岡地区へ続く高規格の道路を進みながら、バックミラーに映るバイクのヘッドライトを時折確認した。距離を取っているのは、このスピードで体当たりされたら、確実にバイクが負けるからだろう。急ブレーキを踏んでも、あれだけ車間距離を空けていたら、激突させるのは難しい。頭に浮かぶのは、海知が思いつきそうな物理的な攻撃ばかりだ。バイク以外に追手が増えることは、なかった。余計な関わりを持ったことで自分が逃がしてしまったという意識が、里緒菜の中にあるのかもしれない。そう思いながら、島野はバックミラー越しに、将吉に言った。
「なんか、隠れられそうなもん、ある?」
「毛布がある」
将吉は丸められた毛布を足元から持ち上げると、見えるように掲げた。
「おれが車から出ても、いいって言うまでは出てきたらあかんで。その毛布被って、見つからんようにしといてくれ。できる?」
「はい」
将吉は短く答えると、毛布を広げた。『でっか』と小さな声で呟くと、舞った埃を吸い込んで咳き込んだ。
「汚い、これ」
「ごめん。耐えてくれ」
滝岡産業道路と書かれた錆びた看板を通り過ぎたとき、スマートフォンのナビが『百メートル先を大きく左方向です』と言い、島野はブレーキを強く踏んでコンテナヤードに続く道へ入った。デリカの車体がほとんど横転するような勢いで傾き、将吉がジェットコースターに乗っているように声を上げた。島野は思わず言った。
「大丈夫?」
「大丈夫」