Ravenhead
午後六時半。完全に日は落ちて、空は紺色。アパートの前で霧鞘と合流した十野は、空を見上げながら言った。
「真っ暗やで、はよ帰って。ごめんなさいね、付き合わせて」
「手がかりは、ありましたか?」
片手に、沢商店で買い込んだお菓子の袋を持った霧鞘が言うと、十野は首を横に振った。
「心当たりのある場所は行ったし、学校にも聞いたんやけど。学校はみんなと同じくらいの時間に出たらしい」
霧鞘は端の曲がったコピー用紙を一度伸ばすと、十野の顔を見上げながら言った。
「あの……、竹田さんって方は、友人ですよね?」
「竹田? うん。そうやね。将吉が言うてましたか?」
霧鞘は、十野の顔をじっと見つめたまま瞬きをした。三度目で涙が流れ出したことに気づいた十野は、周囲を見回した。気にしている場合ではないが、この絵面は誤解されるかもしれない。
「あの、ごめんなさい。なんかよく分からないんですけど。悪さを……」
言い澱んだ後、霧鞘は意を決したように、涙を拭った。
「近所のお店で、万引きをしたらしいんです。わたしはそれを将吉くんから聞いて、知ってて。さっきお店の人に聞いたら、将吉くんは竹田って名乗ってたらしくて」
キジトラが耳を立ててボンネットから降り、セドリックの下に潜り込んだ。場所が空き、十野はセドリックにもたれかかりながら、呟いた。
「もうちょっと、自力で探してみる。霧鞘さんは、家に帰らんと。親御さんに心配されるよ。でもほんまに、一緒に探してくれてありがとう」
霧鞘は、十野の真似をするようにセドリックにもたれかかり、諦めきれないように唇を結んだ。
「正義感を、出していきたいんです」
「出てるよ、霧鞘さん。おれが今までに見た高校生の中で、一番やと思う」
「写真、持って帰っていいですか? 聞きながら帰ります」
十野は何も言わずにうなずき、それで取引が成立したように、霧鞘はぺこりと頭を下げると家の方向へ歩いて行った。十野はアパートの階段をよろよろと上り、居間にへたり込むように座った。息がひっかかって途切れ途切れになり、それは嗚咽に変わった。将吉なりの、竹田家に対する嫌がらせ。親の背中が、そうさせたのだ。父親が友人の成功を妬んでいることなどお見通しで、波風を立てようとした。
息が整うまでしばらく俯いていた十野は、警察に電話をかけた。短いやり取りの中では分かったのは、警察は忙しいということ。いくら小学生とは言え、一時間帰るのが遅れたぐらいでは、動かない。事件性を確認するためか、応対した警官は言った。
『約束など、していましたか? 何か、楽しみにしていたり』
『ゲームを一緒にしようと』
咄嗟についた嘘だったが、相手は信用しなかったようだった。十野は、竹田に連絡を入れるか迷っていたが、立ち上がり、靴をつっかけると町に飛び出した。霧鞘のまっすぐな目は、十野の生き方そのものを貫いているように、鋭かった。帰さなければ、ひと晩じゅうだって探してくれただろう。十野はボンネットを叩いてキジトラを脱出させ、セドリックに乗り込んだ。
親が部屋でへたり込んでいて、どうする。
島野はデリカの運転席に座り、助手席に置かれた二通の封筒を見下ろした。自宅に戻るなり、里緒菜が、目隠しをつけたままの将吉を二階の部屋に上げ、孝太郎は浩義をパソコンの前に座らせると、文章を作らせた。何も見せないし、聞かせないようにしている。それは、殺すつもりはないという意思表示なのだろう。つまり、将吉に顔を見られている自分は、朝戸家の『最後に消すリスト』に入っているということだ。自分が、兄の快斗と同じ運命を辿ることを気にする人間は、いないだろう。島野は運転席から降りて、入り組んだ路地を抜けた。将吉が伝えた、自宅の住所。目印は猫とセドリック。どちらもいなかったが、スマートフォンを見る限り、場所は合っている。マスクにパーカーのフードを被った島野は、アパートの階段を上がり、郵便ポストに一通を投げ込んだ。早足でデリカに戻ると、高鳴る心臓の動きを足に伝えるように一度空吹かしして、島野は大通りに戻った。午後六時四十分。人通りは多い。型落ちのデリカも当然、記憶に残るだろう。ショッピングモールの前の横断歩道を渡る、大勢の通行人。それが全部目撃者になる。島野は車の中にいながら、フードは被ったままにしていた。青信号で跳ねるように発進させ、将吉が覚えていた住所を頼りに高級住宅街の一角に辿り着いたときは、午後七時になっていた。島野は早足で竹田家の玄関まで辿り着くと、もう一通の封筒と、『十野』と書かれた名札を投げ込んだ。
申し訳程度に渦を巻く髪を乾かしている高雄の耳に、あゆみの『なんか来たかも』という声が届いた。克之が洗面所に顔を出し、竹田家に生まれた未来を案じるように、高雄の頭頂部を見上げながら言った。
「乾いた?」
「いいや、まだかな。ごめん、お母さんに取ってもらってくれ」
高雄が言うと、克之は廊下に駆け出して行ったが、代わりにあゆみが入ってきて、言った。
「封筒は、お父さん宛て。これ、十野くんの名札?」
高雄は手を止め、あゆみの手に乗る封筒と名札に視線を向けた。竹田高雄様と書かれているだけで、消印はない。誰かが直接、ポストに入れたのだ。高雄がまだ湿気ている手で受け取ると、あゆみはご飯の準備に戻っていった。入れ違いにコテツが現れて足の間をぐるぐると回り始め、高雄は名札を見つめながら首を傾げた。黒川小学校の名札。あの『十野』で間違いないはずだ。竹田は着替えの上に置いたスマートフォンを手に取り、十野にメッセージを送るか迷ったが、洗面所の扉を閉めると、先に封筒を開いた。逃げ場を失ったコテツが短く鳴いたが、それどころではない。本文はワープロで作成されていて、文字は小さかったが、はっきりと読めた。
『とおのまさよしを返せ チクロン、おまえのしごとを知っているぞ』
高雄は洗面所の椅子から転げ落ちそうになり、バランスを取るために洗面台を掴もうとしたが、間に合わずに結局、床に転んだ。コテツが飛び上がり、締め切られた扉を引っ掻いて開けようとした。高雄はかろうじてコテツを外に出し、扉が半開きになったまま椅子を起こすと、中身を封筒に戻した。
「お父さん、こけた?」
台所から、笑いの混じったあゆみの声が届く。高雄は大きく深呼吸をしてから、言った。
「大丈夫」
扉を開けると、着替えを済ませて、高雄は二階に上がった。数少ない自分だけの空間である、書庫兼物置部屋。プライバシーが守れる場所と言えば、ここしかない。ドアを閉めると、高雄は封筒から中身を抜き出した。十野将吉? 十野の息子が誘拐されたということだろうか。一体、誰に? しばらく、短い文章と睨めっこしていた高雄は、ひとつの可能性に突き当たった。強盗の情報が漏れたのだ。十野以外で『チクロン』という名前を知っているのは、海知と島野。いや、いたずらの可能性は、どうだろうか。高雄は目をしばたたかせながら、無機質な文字を検査するように、顔を近づけた。十野はワル仲間だが、それは全て過去形だ。自分の息子が誘拐されたなんて冗談を言うだろうか。