Ravenhead
村井が話している内に、霧鞘は興味を失って、ノートに絵を描き始めていた。村井が呆れたようにため息をつくのと同時に、門森が言った。
「霧鞘さんは、迷子をほっとけなかったんです。行ったらあかん方とは分かってたけど、そっちに住んでる子やったんで」
「門森さんも一緒やったの?」
村井は目を丸くした。門森は委員長で、自分を見失わない。しかし、霧鞘のことになると、どこか情に流される傾向がある。霧鞘は再び手を挙げると、言った。
「今日から、わたしパトロールするんで。正義感、出していくんで」
「やめっちゅうに」
村井の言葉で締めくくられた後、そのまま一限目が始まり、二限目との間の休憩でトイレに向かう門森に追いつくと、霧鞘は言った。
「杏樹、ありがとう。なんか昨日から優しい」
「昨日からって、どういうこっちゃよ」
門森はそう言いながら、霧鞘の表情を窺った。昨日、少し様子がおかしいような気がしたのは、思い過ごしなのだろうか。霧鞘は探偵のように細い顎を撫でながら、言った。
「なんかなあ、運命を感じてん。わたし、十野って名前には、どっか聞き覚えがあって」
「それこそ、前世ちゃう?」
「かも。なんかさ、人の話やと盛り上がるんよ、うちの家」
門森は正解に行きついた気がして、表情を強張らせた。霧鞘の頭の中は、誰にも分からない。恐らく本人が、今自分が最も悲しい気分になっているということに、気づいていないはずだ。でも、私には分かる。
「今日も、パトロールしよか」
霧鞘には、学校でも家庭でもない、別の風が必要だ。門森がそう思って顔を向けると、霧鞘はいつもの底が抜けたような明るい笑顔を見せた。
「委員長……、いいんすか」
「いいんすよ……」
門森はそう言うと、トイレのドアを押し開けた。
『折』という字が『祈』になっていることに、先に気づいたのは、浩義の方だった。里緒菜は真顔で紅茶を飲みながら、言った。
「あんまり、賢い人じゃないね」
「そうやな」
浩義は短く答え、裏が白紙であることを確認すると、元に戻した。『ワン切りしろ』と書かれた番号は、携帯電話のものだ。どこまで準備ができたのかは、知りようもない。しかし、強盗を生業にできるぐらいだから、使い捨てられる携帯電話ぐらいは、持っているだろう。孝太郎は、海知がどうやって港湾地区に住み着き、塀の中と外を出入りしているか、ひとしきり聞かせた。
「お父さん、よく知ってる人なんやね」
里緒菜が言ったとき、時計の針が朝の九時を指した。孝太郎は名簿の写真を印刷すると、順番に並べていった。今までに海知が関わったと思しき物件と、名前のリスト。今までに組んだ回数が正の字で書かれていて、それが十回に至るチクロンが、浩義の目にも留まった。
「常連やな。チクロンって呼ばれてんのか」
里緒菜が顔を寄せて名簿を覗き込んだとき、玄関のチャイムが鳴った。孝太郎が立ち上がり、浩義を手で止めた。
「あんまり動くな。里緒菜も、そこにおれ」
この家に住んでいるのは、自分だけだ。慶弔休暇を取っているとはいえ、被害者とその妹が真顔で『捜査』を始めている姿を見れば、誰だって記憶に留めるだろう。孝太郎はインターホンの画像を映した。そして、浩義に言った。
「おい、浩義。お前、椅子から動くなよ。できるか?」
浩義がうなずくと、孝太郎は玄関まで歩き、ドアを開けた。ほとんど眠っていない、疲れ切った顔。孝太郎は言った。
「うちの家に、なんの用事や?」
「海知は、狂ってます。自分は、捕まりに来ました」
島野はそう言うと、深々と頭を下げた。孝太郎が居間に連れてきたとき、里緒菜が立ち上がって、言った。
「え、誰?」
「島野恭介です」
島野の短い自己紹介に、里緒菜はテーブルの上の灰皿を掴んだ。孝太郎が視線だけでそれを制して、言った。
「里緒菜、座れ」
島野はポケットを探ると、ジッポライターを取り出して、テーブルの上に置いた。
「誘拐したのは、海知です。このライターを見て、兄貴を殺した人間に仕返しをすると」
浩義は何も言わなかった。それは、孝太郎がそのように指示していないからで、目だけは島野の動きをぶれることなく追い続けていた。孝太郎は言った。
「島野さん、なんでうちに来た? ライターを返しに来るためか」
「海知を、捕まえてほしいんです。自分も、覚悟ができました。本当に申し訳ない」
島野は、そう言いながら涙を拭った。そして、ぼやけた視界に映る三人の朝戸家の面々を見ながら、ふと思った。表情がなく、人形のようだ。まるで、感情を纏った振りをしていたのが、皮が剥がれて本当の顔が見えたような。それでも、島野の頭の中には、一度動き出した以上、止められない流れができていて、言葉は今更引っ込めようがなかった。
「息子さんは、現場で亡くなってます」
そう言ったとき、孝太郎と浩義は顔を見合わせて、笑顔を見せた。島野は、ほとんど睡眠を取っていない自分が、幻覚を見ているのではないかと思い、目をこすった。今、明らかに笑った。島野の方に向き直ると、孝太郎が言った。
「島野さん、よう言うてくれた」
浩義もうなずいた。里緒菜ですら、何かが決定的に動いたような期待に満ちた目で、同じ朝戸家の人間二人に対して、視線を向けている。島野は、その異様な様子に身震いした。
「警察は、自分らだけではようやらんことの方が多い」
そう言うと、孝太郎は立ち上がって、島野を手招きした。浩義が後から続き、玄関から出た三人は、ハイエースの前に立った。孝太郎は言った。
「タガメが、中におる」
浩義がスライドドアを開けると、横倒しになったタガメが、包帯でぐるぐる巻きになった顔を上げて、島野の姿に気づき、顔をしかめた。孝太郎がガムテープを引き剥がすと、喘ぎながらせき込み、場の空気に追いつこうと慌てるように、忙しなく呼吸を整えてから言った。
「恭介くん。こいつらに言うたってくれ。こんな体勢で、何時間ほっとくねんって」
島野が応じられないでいると、浩義が背中を押した。
「お前の忠誠心が知りたい」
島野は振り向いた。タガメをじっと見下す浩義の目が動き、島野を捉えた。
「殺せ」
島野がタガメに馬乗りになり、その首に手をかけて絞め殺すまで、五分を要した。ハイエースの中を覗き込み、孝太郎は言った。
「島野さん、しばらく付き合ってもらうぞ。中に戻ろか」
島野はハイエースから転がり出ると、よろけながらも自分の足で立ち上がった。里緒菜が待つ居間に戻って、島野が三人の輪に混ざったとき、浩義がテーブルの上に並んだ写真を差し出した。それは、島野も知っているノートだった。去年、久々に家を訪れたとき、海知が何かを書いているのを見た。目が合った瞬間、『殺す』と言われたことも、覚えている。里緒菜が言った。
「これ、海知さんのノートやねん。読んだことある?」
島野が首を横に振ったとき、孝太郎が一枚を指差した。書かれているのは、名前と、家族の有無、そして本業。島野が顔を上げると、孝太郎は言った。
「このチクロンって奴、分かるか?」