Ravenhead
全身の骨がぐらぐらになった状態なら、ゼロ円。里緒菜は、『折』が間違えて『祈』と書かれていることに笑い出した。本来なら神妙な顔をしているべきなのだろう。しかし、今は自分しか家にいないし、面白いものは、どんなときだって面白い。里緒菜はひとしきり笑った後、子供のころに学校の先生からよく言われた、『人の痛みを理解できるようになりなさい』という言葉を思い出した。隣の席に座っていた女子の名前は忘れたが、その耳にタコ糸で作った輪を引っかけておいて、何か借りたいときに引っ張ると、無言でなんでも貸してくれた。そうしたのは、授業中に隣の席の人間と貸し借りをしてはいけないし、話してもいけないという決まりがあったからだ。ルールに説得力がなければ、逸脱したことに対してとやかく言われる筋合いはない。例えば、道交法は人の命を守る。それは全力で啓蒙すべきだが、授業中に課された無言ルールは、教師の権威を守るためだけにある、意味のないものだ。
春香さんと、母親似だった浩太くん。二人とも、朝戸家の人間にとっては、できすぎた存在だったのかもしれない。里緒菜は昨日の昼にスマートフォンで撮ったばかりの、三人でショッピングモールに向かうところを写した自撮りを眺めた。人間というのは、いつ死ぬか分からない。
他人のそれを決める手段と覚悟を持つ朝戸家は、それだけで恵まれている。
弱い朝日が窓から差し込み、光の帯の中で埃が舞っている。島野は酔っているときのように、意識が飛んではまた復活するというサイクルを繰り返していて、ガレージのハンモックで熟睡している海知とは対照的に、睡眠をとったという意識は全くなかった。体のどこかはずっと起きていて、執拗にひとつのことを伝え続けていた。自分の兄でありながら、はっきりと理解できること。島野快斗は、人間の屑だ。そして、直接手を下した人間も同じ。しかし、その家族は別だ。海知が早口で読み上げた名前は、頭に刻まれたように忘れられない。朝戸春香と、息子の浩太。海知はおそらく、酷い事故だと結論付けている。殺す気はなかったのだから、殺してはいない。海知のはめ込み式の頭脳なら、その理屈が成り立つだろう。警察が到着したときに、あのハリアーに三人全員が揃っていたとしたら、どうなっていただろうか。恐らく海知は、警察がどうにかして浩義から事情を聞き出し、バックミラーに映った微かな影や、気を失うまでに聞いていたかもしれない音を頼りに、自分に行きつくと思っている。しかし、それが誘拐事件となれば、浩義はありとあらゆる行動履歴を顔の利かない刑事に聞かれる羽目になるから、島野快斗の殺しに辿り着くことを恐れて、口を閉ざす。不確定な要素を全てクリアすれば、海知の理屈は合理的なようにも思えてくる。
島野は体を起こすと、自分に問いかけた。この酷い事故は、起きて当然のことだったのかと。覚えている限り、島野家は中途半端の大辞典だった。何をしても続かなかったというのは、家庭そのものにも、当てはまる。そこから飛び立った覚せい剤中毒の兄と、金庫破りの弟。そして、同じ土俵まで下りてきたモラルのかけらもない警察官、朝戸浩義。どう考えても悪人だが、やはり家族は関係ない。海知は、あっさりと一線を越えてしまった。島野は靴を履き、海知を起こさないよう忍び足で、埃だらけの正面のドアを開けると、パーツショップから一歩外に出た。これで、海知からも追われる身になった。島野は、唯一の移動手段であるスクーターを取りに、自分の家に向かって歩き始めた。
少なくとも、今の自分は、海知の側にはつけない。
朝八時、検査入院を終えた浩義を乗せた孝太郎は、カローラスポーツのハンドルを握りながら、言った。
「指は?」
「ヒビだけやった」
朝戸家の人間は、涙を見せない。孝太郎自身がそうだった。父母を失っても、妻に先立たれても、立番をしている警官のようにまっすぐ前を見据えて、ここまで来た。浩義と里緒菜の性格は知らないが、同じような人間に育つよう、目を光らせてきた。どんなことが起きても、まず立ち上がれ。死に物狂いで切り抜けた後、まだ悲しければ、そのとき泣け。子供のころから、孝太郎は二人にそう説いて、泣いて伏せている時間を許さなかった。泣けば、さらに泣きたくなるような拳骨が飛んでくる。それを先に学んだのは里緒菜の方だった。浩義も、中学校に上がるころには、朝戸家の人間にふさわしい、何事にも顔色ひとつ変えない冷静さを備えていた。
「身代金は、二千万や」
孝太郎が言うと、浩義はまっすぐ前の景色を見たまま、うなずいた。
「こっちの懐事情を知ってる。吹っ掛けてはない」
孝太郎は、信号待ちで停車し、浩義の顔を見ながら言った。
「値引きする度に、骨を折る。全身の骨が折れた状態なら、ゼロ円で返す」
「合理的やな。親父、浩太は生きてるかな」
浩義の言葉に、孝太郎は首を横に振った。信号が青に変わるのを待ちながら、思った。そんなところでぐずぐずしている場合か。まだ強さが足りない。いつだってそうだが、浩義は、里緒菜のように思い切りがよくなかった。
「誰がやったかは、目星がついてる。滝岡地区の悪ゴロで、海知アキラって奴や」
「島野快斗の知り合いか?」
「弟とは付き合いがある。夜中に、海知の家にお邪魔してきた。あいつは、強盗のリーダーをやっとる。名簿の写真を撮ってきた」
孝太郎は青信号で、アクセルを踏み込んだ。浩義の目が少し険しい光を帯びて、猟犬らしい状況判断が頭の中で始まった。本気にさせるには、まず餌を投げる必要があるのだ。そのように育てたはずだ。まず立ち上がって、解決しろ。それでも悲しければ、そのとき泣け。孝太郎がスピードを上げる中、浩義は言った。
「里緒菜は、家におるんやんな?」
「おるよ」
「家に戻ったら、二人とも協力してほしい」
浩義の言葉に、孝太郎は前を向いたまま、口角を上げて微笑んだ。朝戸浩義と妹尾春香の結婚式は、それは盛大で、あちこちから仲間が集まり、二人の門出を祝った。しかし、いい時代というのは、過ぎ去るものだ。問題は、それを受け入れて、戦争状態に身を置けるかということ。孝太郎は、浩義の横顔を見た。その辺の幸せな家庭人になってもらうつもりで、育てたわけじゃない。
最後のひとりになるまで、殺せ。
「昨日、うちの制服を着た高校生が、商店街の周りで目撃されたらしい。心当たりある人?」
村井の諦めたような表情と、レーダーのように霧鞘を捉えて動かない目。クラスの中がくすくす笑いでざわつき、何人かが霧鞘の方を振り向いた。
「昨日、先生はなんて言いましたかー?」
村井は、感情に任せて怒るタイプではなく、どちらかといえば大らかなほうだった。机に溶けかかったように突っ伏した霧鞘は、細長い手を挙げた。村井は神妙な顔でうなずき、言った。
「はい、霧鞘さん」
「せんせー、迷子ってどう思います? 放っておくのが正しい? このご時世、感謝されないこともありますよね」
「迷子を見つけたら、声をかけて、交番まで連れていくとか。家が近いなら、送ってもいいかもしれんけど」