Ravenhead
「克之、次の配信は映りこめよ」
「うん、さりげなく」
そう言ってうなずく克之を見ながら、あゆみは呆れたように笑って、言った。
「顔は隠してね」
「へーえ、とおのね。数字の十に、野っ原の野やな」
気の抜けたような、父の言葉。霧鞘家は、両親の血を娘が受け継いだのか、両親が長い共同生活の中で娘に似たのか分からないぐらいに、三人ともリアクションが似通っている。父の康隆は四十五歳で、母の千晶は一歳年下。職場で知り合い、今も部署は違うが、同じ会社に勤め続けている。数年前に大喧嘩をしたとき、康隆は『おれは、あいつのおる部署には、金輪際連絡せん』と宣言し、千晶が総務部にいたことから、十分後に交通費の件で電話を掛ける羽目になったことが、今でも社内で笑い話になっている。千晶はエビフライの尻尾を丁寧に端に寄せながら、記憶を呼び起こすように宙を向いた。
「十野さんかー。うん、十野さんね」
「絶対、覚えてないやろ」
康隆は笑い、自分のエビフライを尻尾ごとバリバリと噛んで飲み込んだ。真由は、キジトラの顔を思い出して、言った。
「車の上で、猫を飼ってんの。もう、ほんまに可愛くて。ご子息も可愛かったな」
「ご子息って。それにしても、迷子を助けるってのは偉いね。今のご時世、せっかく保護したのに逆切れされたり、あるらしいやん」
康隆はそう言って、千晶の空いたグラスにビールを注いだ。千晶は康隆に向かってグラスを掲げると、ひと口飲んでから言った。
「真由は、正義の味方な感じが顔から出てるから、大丈夫やで」
「ほんまにー? じゃあ、これからも人助けする」
真由が宣言すると、康隆は満足そうにビールを飲み干し、空いたグラスを眺めながら言った。
「商店街の裏手はガラ悪いから、自分からは行くなよ。十野は竹田ってやつと、昔から仲が良くてな。あいつらは、おれよりかなり年下やったはずやけど。いやあ、でもなあ、悪かったぞ」
真由は箸を止めて、言った。
「頭?」
「失礼か。不良って意味や」
康隆が笑いながら言い、真由も笑った。スーツ姿だと、そんな風には見えなかった。康隆は空いている方の手で、工場地帯の方角を指差した。
「あっちの方に、工場並んでるとこあるやろ。川に面してるセメント工場跡が、あいつらの遊び場やった。それこそ、二十年ぐらい前の話やな」
川沿いのセメント工場跡は今でも健在で、町のどこからでも巨大な煙突が見える。そこから、康隆と千晶の、若かったころの思い出話が始まった。夕食が終わって、千晶と洗い物を片付け、部屋に戻ったとき、真由は頬が少しだけ熱を帯びていることに気づいた。他人の話が、一番気楽だ。地雷もなければ、ふとした弾みで触れてしまう、家族で共有している思い出もない。しばらくスマートフォンの画面を眺めていたが、真由は目を閉じて、ベッドの上に大の字になった。今日は、盛り上がったな。兄の友樹が生まれたのが、まさに二十年前。セメント工場跡の話になったとき、もしかしたらそこに行きつくんじゃないかと、心配した。
真由はいつも、二人のことを超人だと思っていた。二年前、康隆の携帯電話に知らない番号からの着信が入ったとき、誰も覚悟はできていなかった。それでも二人は、真っ先に娘のことを気遣った。まるで、真由自身が事故に遭って、取り返しのつかない怪我を負ったかのように。涙すら、見た記憶がない。警察は、センターラインのない対面通行の道路での、双方の視界不良による正面衝突だと結論付けた。衝突した相手はダンプカーで、友樹はバイクごと二十メートル押し戻されていた。真由が最後に姿を見たのは、その日の朝だった。ヘルメットを持っている友樹を見て、『雨なのに、わざわざバイクで?』と思ったが、ソファから起き上がるのが面倒で、夕方から雨が降るということを言わなかった。
真由が目を開けたとき、門森からメッセージが届き、スマートフォンが光った。
『冒険、おつでした』
『楽しかった。わがまま聞いてくれて、ありがと』
『また行こ。キジトラちゃんも、まさよしくんも、可愛かったね』
『うちのお父さん、十野さんのこと知っとった。昔は、悪かったんやって』
『そうなんや、優しそうに見えたな』
門森はそこまで返信のラリーを続けたところで、指を止めた。霧鞘はそこまで返事が早い方ではない。会話の途中で眠ることもあれば、そのまま額でスマートフォンを踏んで、同じスタンプを続けて送ってくることもある。これだけ返信が早いということは、何か、いつもとは違うことが頭の中を駆け巡っているに違いない。門森は唇を軽く噛んだ。何かあるのなら、力になりたい。中学三年の、最後の夏。夕立がすごくて、それは『帰ったら、泳いできたみたいになる』という、門森の冗談では終わらなかった。霧鞘の兄は、帰れなかったのだ。その日の夜、両親と一緒に三人で、霧鞘を見守った。ほとんど食べず、眠りもせず、告別式どころか葬儀にすら、出られなかった。二週間近く休んだ後、教室に入ってきた霧鞘は、控えめに言って、別人だった。古くから知る人間は皆、霧鞘のことを無口なタイプだと思っていたし、今でも、その情報が更新されていない人間はいるだろう。
本人には言えないが、本当に大丈夫なのか、時々考え出すと収まらなくなって、息が止まりそうになることがある。
沈黙が苦手なタイプではない。ただ、自分で作り出したとなると、話は別だ。浩義は、ハリアーの助手席と後部座席でそれぞれ地蔵のように動かない春香と浩太を、敢えて視界に入れないようにしながら、運転を続けた。里緒菜は尋問慣れしていないから、それなりに時間がかかるだろうし、島野快斗の捜査の状況も全く掴めない。暴行死と結論付けられるのは、間違いない。不幸にも、誰かのサンドバッグになった男。滝岡地区ではよくあることだ。タクシーの運転手も、そう証言するだろう。ただ、どうして二十キロも離れた場所へ移動するのか、その理由を運転手は聞いたりしていないだろうか。そう考えながら、浩義がトラックを追い越したとき、春香がドアグリップを掴んだ。
「危ないよ」
雨が降り始めている。浩太は、残念さが勝っている様子だが、春香はもっと色々なことを考えているだろう。今ここで、それを聞き出す気にはなれない。浩義が黙ってハンドルを握っていると、浩太が後部座席から言った。
「どんな事件?」
殺人事件だ。浩義は頭の中で答えた。体中の骨を折ってやったつもりが、死んでなかったんだ。警察学校では、殺し方は教えてくれないんだよな。そう言えたらどれだけ気が楽か。摘発したホストクラブの先には、さらに大物がいる。薬の卸業者だ。その業者が、ホスト狂いの若い女を薬漬けにして、酷いときは海外に売り飛ばしている。ここで躓くわけにはいかない。
「殺人事件やね、おれの専門ではないけど、協力してくれって言われた」
「そうなんや……。警察って、大変」
浩太の言葉には、運転席と助手席の間に居座る暗い溝を打ち消そうとする努力が、見え隠れしていた。浩義はバックミラー越しに視線を合わせると、言った。
「ごめんな」