火曜日の幻想譚 Ⅱ
151.無臭郷
『臭い。臭すぎる』
村尾宗一郎は、幼少期からそればかりを思って日々を営んでいる。別段、彼に近しい人物の体臭が特別強いというわけではない。彼の鼻腔の周囲に、何か臭いのするものが付着しているというわけでもない。もちろん、「この街は、血の匂いがする」といったような、いわゆる比喩表現でもないのだ。
これが、身近な人が臭いと言うのならば、いつも満員電車で男性陣の加齢臭に辟易しているOLの方や、旦那の靴下に日夜鼻の曲がる思いをしている奥様方、お父さんのパンツと自分自身のそれとを同じ洗濯機で洗って欲しくない女子高生たちの賛同を得られたかもしれない。また、それが彼の鼻腔の周囲に存在する物体であったなら、手術で除去できただろう。ましてや、彼特有の比喩表現だったならば、そのセンスで詩などをしたためれば良いかもしれない。
だが、彼の場合はそのいずれでもなかった。
彼は人一倍、いや犬よりも鼻が敏感だった。それ故、他人よりも強烈に臭いに敏感になりながら生きているのである。ゴミの臭いやケモノ臭、口臭、体臭、汗の臭い、カビ臭、加齢臭、腐敗臭……。日常生活を送るだけで、彼はもううんざりしてしまう。
そんな彼が特に悩まされているのが人間だった。人間は臭すぎる。人間は臭いに毒されてしまっている。村尾はそう考えている。
そんな事はない、『良い匂いの人間もいる』という反論もあるだろう。だが彼は、石鹸やデオドラントスプレー、香水のような匂いですら不快なのだ。それどころか、芳しい花の香りやリラックスすると言われる森林の香り、おいしそうな食事の匂いといったものまでも、彼にとっては悪臭でしかない。
ここまで徹底して匂いを否定されると、ラディカルなことの一つも言いたくなるだろう。いっそ鼻を削ぎ落してしまえ、と。しかし、村尾は『それも違う』と答える。彼は、『臭いが嗅げない』のではなく『臭いが無い』状態になりたいのだ。水分が取れない状態ではなく、ジュースや酒しか飲めない状態でもない、味のない真水だけを口にしていたい、そういうことを村尾は言いたいのである。
言うなれば村尾は、臭いの一切ない桃源郷、『無臭郷』に憧れているのだ。
そんな悩みを抱え続ける村尾は、自身の希望で都内の病院に勤務していた。村尾がこの勤務を希望していたのには訳がある。病院には、無菌室があるというのがその訳の一つだ。無菌室ならば、日々悪臭を吸い込んでいる鼻もつかの間の休息を得られるだろう、という魂胆なのだ。だが、所詮無菌室だって完全に臭いが消えるわけではない。所詮は気休めに過ぎないことに、村尾も気づいていた。
村尾が病院を志望したもう一つの理由。それは、医療の専門家に相談できるという点だった。耳鼻咽喉の専門家たる医師に相談すれば、この悪臭に悩まされる毎日から解放されるかもしれない。村尾はそれに賭けていた。
だが、結果は村尾の望むようにはならなかった。医師すらも、村尾の鼻にはさじを投げざるを得なかったのである。
その結果を聞いて当然のごとく絶望した村尾。彼は、最後の手段に出ることにした。『無臭郷』へと赴くための最後の手段。
村尾は医師に頼み込み、自分を死んだことにしてもらう。そして手術台の上の人になる。全身麻酔の後、鼻と呼吸に必要な器官だけ残して、村尾の体はすべて取り払われる。そう、自らの体臭すらも厭う故に。
液体に漬けられた脳と肺から管が鼻へと伸びていく。それは無菌状態の小箱に入り、臭いのない状況(強いてあげれば、鼻自体の臭いはするかもしれない)で、永遠に呼吸をし続ける。
限りない無臭の中で、ようやくたどり着いた『無臭郷』で、村尾は何を思うのか。もはや呼吸以外できなくなってしまった今、それは誰にもわからない。