火曜日の幻想譚 Ⅱ
156.だけださん
以前勤めていた会社の同僚に、だけださんという人がいた。
だけださん、だ。武田でも竹田でも岳田でも健多でもなく、ひらがなで“だ”けださん。
そんな名字聞いたことないって? そりゃそうだよ、あだ名なんだもの。えーと、確か本名は……、だけださんが定着しすぎて、忘れちゃった。
今日はね、このだけださんの話をちょっとしようと思うんだ。
だけださんは、正直言って仕事のできない人だった。あまり集中力がなくって、いっつもフラフラしてるので、何でクビにならないんだろうねって、新人の頃の僕らは、酒の席でよく話し合ったものだった。
でもね。ある日、だけださんのあだ名の理由と、何でお払い箱にならないのかが分かったんだ。
その日、僕と同期の新人が、誤ってサーバーのデータを消してしまったんだ。簡単に説明すると、約3カ月分の作業がケアレスミスで水の泡になったと思ってくれればいい。そんな大惨事だ。
先輩たちは、もちろんその同僚を問い詰めることなんかせず、もくもくとデータ復旧作業に取り掛かる。だが、どう考えたって楽しい作業なわけがない。彼らの険のある顔つきが、ちくちくとその同僚に突き刺さる。
その同僚は真っ青な顔で、今にも辞表を提出しそうな勢いだ。でも悲しいかな、新人が辞めたって責任を取ったことになんかならないんだ。
僕らも今はやることがないし、でも復旧したら山のようにやることが増えるしで、正直イライラしていた。もちろん上辺ではその同僚を気遣っていたが、心の底はおそらく見透かされていただろう。
そんな険悪なムードの中だった。
「うん。データ、消えちゃっただけだ、ね」
だけださんはふらりと現れ、ポツリとそうこぼし、ふらりとまたコーヒーをいれにいった。
だけださんのそのセリフは、声音、抑揚、音調、タイミング、全てが完璧だった。復旧に焦る先輩らはその言葉でわれに返り、だけださんの後を追ってコーヒーをいれにいく。何もできず、イライラが募っていた僕ら新人は、だけださんの言葉によって緩んだ空気を敏感に感じ取り、平静を取り戻す。
当の同僚は、緊張の糸が切れたのか泣き出していた。だが、われに返った僕らがなだめたこともあって、やがて落ち着いた。
結局その後、先輩たちの頑張りによって、この一件は笑い話となった。
そしてあの人はピンチになると「〜だけだ」と言って、緊迫した場を治めてくれるから「だけださん」なんだということを、僕ら新人は教えられた。その日から、僕ら━━特に例のデータを消してしまった同僚は、普段、全く仕事ができないだけださんを尊敬するようになったんだ。
これ以外にも、だけださんの活躍は枚挙に暇がない。
納品をしに行ったのに肝心の納品物を忘れたり、得意先のお偉いさんを激怒させたり……。間違えて社内メールに上司の悪口送っちゃったやつもいた。でも、みんなだけださんの「だけだ」に救われたんだ。
もうどう考えても駄目だってときも、だけださんの一言でどうにかなるんじゃないかって気になってしまう。おかしいよね、本当に一言だけなのに。でも、そんなすごい人だったんだよ。
なら、さぞかしだけださんは、今、偉くなっているだろうって? ……残念ながらね、少し前に交通事故で亡くなった。本当に惜しい人だった。確かに今も生きていたら、出世していたかもしれないね。
でも、だけださんに助けられた僕らが葬式に訪れたとき、青空の下で確かに聞こえたんだ。
「なぁに、死んだだけだ」
っていう彼の声を、ね。