火曜日の幻想譚 Ⅱ
234.玄米茶とチャーハンおじさん
たまに、いつもと違うことをしたくならないだろうか。
今日は一つ先のバス停まで歩こうとか、違うコンビニエンスストアに寄ろうとか、そこでいつもと違うお茶を買おうとか、そんな感じだ。だが、そうやって普段との差異を楽しんだ後、ふと怖くなることがある。
世間には、恐ろしい未解決事件や、失踪事件が後を絶たない。私が普段と違う行動をした後、事件に巻き込まれて行方不明になったら、これらの身勝手な気まぐれが、解決を遅らせてしまわないかと考えてしまうのだ。
先の例を使うと、違うバス停まで歩いたのは、誰かと会うためだったのではないか。そのバス停まで行く途中、「何か」を見てしまって、事件に巻き込まれたのではないか。そんな説が、警察の捜査で持ち上がりかねない。普段と違う店に寄った場合も、同様のことが言える。それに、その店で違う物を買った場合も、誰か来客を予定していたのではないか。そんなふうに考える人がいそうに思う。
だが、それらはただの偶然でしかない。事件とそれらは何の関係もなく、ただ本人の気まぐれなのだ。しかし、それを伝えたくとも、その頃、既に命または消息のない私にはそれは伝えられないのだ。
でも、事件になったら、警察や探偵、未解決事件に興味を持つかたがたは、やはり、いつもと違う行動に何かがあると考えてしまうだろう。そんな中で推理を披露した時に、じゃあ、何で被害者は、いつもと違うお茶を買ったのか、そう問われて答えに窮してしまった場合、それが真実だとしても、却下されてしまいそうではないか。それによって捜査や真相の究明が、遅れることにもなりかねない。そう思うと、今後、うかつに気まぐれな行動を取るのが恐ろしくなってしまう。
やはり、普段から同じ道を同じ時間に通り、同じお店で同じ買い物をするのが正しいのだろうか。例え、店員から
「あの人、玄米茶とチャーハン、いつも買ってくよな」
と影でこそこそ言われて、あだ名を付けられようとも。