火曜日の幻想譚 Ⅱ
235.声
殺したいほど憎いやつがいる。
その相手は、昔同じ会社に勤めていた女性。対して仕事もできないのに、長く居るというだけで威張り腐っていた、一言で言うならお局ババアとでも言うべき人種だ。入社当初の私は、指導という名目で彼女に徹底的にしごかれた。いや、しごかれたなんてもんじゃない、あれはイジメだった。どんな些細なことでも間違えれば、ネチネチと嫌味を言われた。時には手を出されたこともあったぐらいだ。
今の時代なら、パワハラということで色々対処も可能だっただろう。だが当時、社会に出たての私は我慢をするのがある種の美徳だと考えていた。この程度で挫けていては一人前の社会人にはなれない、そういう思いだった。だから、どんなに理不尽でも悔しくても、私は耐え忍び続けた。あんな性格だから結婚できないし、両親も他界して天涯孤独の身になったんだ。せめてもの慰めに、心の中で彼女のそんな境遇をあざ笑うのが精一杯だった。
結局、訳あって私はその会社を離れることになり、彼女が側に居る生活は終わりを告げた。だが、離れてみて初めて気づいたことがあった。何かをする度に、彼女の意地の悪い声が脳内で私を詰るのだ。
例えば、私がなにかミスをしてしまった時、
「あんた、相変わらずグズなのね」
「このくらいのこともわからないの? 何やってもダメなやつ」
「いい加減、荷物まとめて実家に帰れよ」
かつて言われたこんな科白が響き渡る。
仕事で結果を出したときですら、
「あんたじゃ、せいぜいその程度ね」
「たまたまでしょ。次はないわよ」
「このくらいで浮かれちゃって、まあ意識の低いこと」
と、こんな具合に私をジリジリと苛んでいくのだ。
私はもういい加減、この脳内からの声に耐えられなくなっていた。あのババアをぶち殺して、この声を止めてやる。法で裁かれようとも構わない、こうしなければ治らないのだから。私はそう決意して、綿密に殺人計画を練り始めた。
数年後、準備は整った。後はあのお局の出社を見計らい、襲いかかるだけ。念のため、久しぶりに当時の会社の知り合いに連絡し、彼女がまだ会社に在籍しているか確かめる。すると、意外な返事が帰ってきた。
「ああ、あの人。亡くなったよ、確かあなたが辞めてすぐぐらいに」
電撃を受けたかのようなショックだった。あの憎きババアが、既に他界していたなんて。それだけではない、密かに計画していたものも全てパーになってしまったのだ。私はすっかり落胆しながら、適当に話を切り上げて電話を切った。そして、まだ飲み込みきれていない今の話をゆっくりと咀嚼して考える。
私が辞めてすぐということは、もうかなり前に亡くなっていたのか。ってことは、もう10年近く前になるんだな……。
次の瞬間、ある皮肉な事に気づき、私は愕然とした。
彼女は、天涯孤独の身の上だった。この10年、ずっと死を悼んでくれる家族や友人などはおそらく居なかっただろう。もしかしたら、あの憎きお局ババアのことを死後もずっと考えていたのは、私だけかもしれない。そこに、悲しみと憎しみの違いこそあれど。
誰しもが忘れていた殺したい程憎んでいた相手を、自分だけがずっと思い続けていた、その驚愕の事実に私は呆然とする。その時、脳内で声が聞こえた。
「だから、あんたは所詮その程度なのよ」