火曜日の幻想譚 Ⅱ
187.気づかなかった殺人
いろいろあったので、引っ越すことにした。今までより数万ほど、家賃が安いアパートに。それほど生活が苦しいわけではないが、なんと言うか家賃を払うのが無駄に思えてきた。それを少しでも遊ぶ金にあてたいという思ったのだ。
新居での荷物の整理を終え、いったん落着く。そうだ、お隣へあいさつをしなければ。僕は、すぐそこで買ってきたまんじゅうの箱詰めを持って、隣の玄関のブザーを押した。ややあって扉を開けたのは、昔、会社の同僚だった井上だった。
「…………」
「…………」
僕らは押し黙る。それもそのはず、井上は十年前、会社の金を持ち逃げして行方をくらましたからだ。
(こんなところにいたのか……)
僕は驚いた。しかし、彼を警察につきだそうとか、会社に言いつけてやろうとかは思わなかった。僕自身その会社をとうの昔に辞めているし、何の被害を被ったわけでもないから。そんな事を考えていると、井上は僕のまんじゅうの箱詰めをひったくって扉を閉めてしまった。
(まんじゅうは持っていくんだな)
何というか、そこに、彼の生活の厳しさがわかるような気がした。
こうして、懐かしいがやや複雑な関係の隣人と生活をすることになった。
井上は案の定、とても切羽詰まった生活をしているようだった。朝は僕よりも早く出勤し、夜は僕が眠る頃に帰ってくる。そして、明け方まで酒を飲み、半ば酔っている状態で出勤するのだ。出勤の出で立ちも作業服、その格好で原付にまたがっていく。もしかしたら出勤ではなく、パチンコ屋にでも行っているのかもしれない。とにかく、失礼な言い方をすれば、かつて同じ会社に勤めていたとは思えないほどの落ちぶれっぷりだった。
それから数カ月ほど後のこと。僕が会社から帰ってくると、この安アパートの前にパトカーが止まり、人だかりができている。どうしたのか聞いてみると、井上が首をつったらしい。それを聞いて慌てて、玄関の前まで走っていった。
僕は、一応井上を知るものとして事情を聞かれた。と言っても、知っているのは10年前のことだけだし、ここに越してきたのもただの偶然なので、特に怒られたりすることもなかった。家に入り、いつもどおりの生活をしていると、いつの間にかパトカーはいなくなっていた。
布団を敷き、井上のことを考える。なんで彼は、唐突に首をくくったんだろうか……。
眠い頭でとろとろと考えていると、ある一つの可能性に思い当たる。
井上はかつて同僚の立場だった僕が隣りにいることに、耐えられなかったのではないだろうか。僕だって会社も変わり、それほど裕福な生活をしているわけではないが、彼ほどすさんだ生活は送っていない。比較対象がまったくなかった人生に、唐突に僕が現れてしまい、自分の人生に絶望したのだろうか。
無論会社の金を横領したことは、許されるべきことではない。だが、横領しなかったときの人生のビジョンを、井上は僕を通して見てしまった。
「済まなかったな。もう立ち去ることにするよ」
すっかり目がさえてしまった僕は、PCの電源をつけ賃貸物件のサイトを開いて、新たな引っ越し先を探すことにした。