火曜日の幻想譚 Ⅱ
214.サル
サルに長時間タイプライターを打たせると、シェイクスピアの作品ができるって話は知ってるかい?
別にサルじゃなくていい。ランダムに文字列を作れれば何でもいいんだけど、なぜかこのサルの比喩が有名らしいんだよ。有名すぎて、無限の猿定理なんて名前がつけられているくらいなんだ。
さて、話はここからだ。この無限の猿定理を、本当に実現しようとした猛者がいた。
何匹かのサルと、いくつかのキーボード(残念なことにサルは絶滅してなかったが、タイプライターは絶滅の憂き目にあった)を用意して、お気に入りの文字列が出るまで、サルに働いてもらおうと計画したんだ。だが当然、サルに重労働を強いることはできない。彼らの労働は1日8時間未満に制限され、報酬には高級なバナナやりんごが用意された。サルの身に何かあった場合、すぐさま代わりのサルが招集され、タイプを打つ任務を負う。
かくして、彼らがシェイクスピアを作り上げるか、その前にサルがこの世から絶滅するか、2つに1つの勝負となったんだ。
12代目、ヨシオキ君。彼は、ここでキーボードを打ち始めて6年になる。1日8時間キーボードに向かうのは重労働だが、報酬は決して悪くない。
「カタ、カタ、カタ、カタ」
ヨシオキくんは、覚束ない手付きでキーボードをたたく。その結果は、少し離れた偉い人間がいる場所に置かれているディスプレイに出力される。
「…………」
相変わらず、要領を得ない文字列しか出力されないので、人間は少したるんでいるようだ。
ヨシオキ君は、その緩んだ空気を敏感に感じ取りとある文字列を打つ。
『chiriteatoomokage』
「……!」
この16字で一気に空気が引き締まるのを、ヨシオキ君は感じ取る。
「これは……、蕪村!」
「ええ、nitatubotannkana、あと16字です」
『nitat』
「!!」
「あと11字っ」
『nitat……isobfdw』
「あー」
「残念です。21字まで来たんですが」
彼らの落胆も、ヨシオキくんには手に取るように分かる。
「でも、ここまで来たんだ。俳句の完成は近いぞ」
「そうですね。俳句を打つサルの出現も間近です」
偉い人たちの漏れ伝える声を聞きながら、ヨシオキ君とその仲間はタイプを打ち続ける。
「何で人間どもは、サルがシェイクスピアや与謝蕪村を知らないと思っているんだろう。俺たち、みんな気を使って打っていないのだけなのに」
「打っちゃったら、作家さんたちになんか申し訳ないですよねえ」
「ああ、恐れ多くてちょっと打てないよなあ」
当然サル語は理解できない人間たちは、キイキイ騒ぐサルの声を聞きながら、彼らが次に打つ文字列を凝視し続けていたんだってさ。