火曜日の幻想譚 Ⅱ
216.童心坂
A県の山奥に、童心坂と呼ばれる坂がある。
かなり傾斜で、子どもやお年寄りは難儀しそうな大きなこの坂。今日はこの坂が、童心坂と名付けられたきっかけになった逸話を話そうと思う。
その昔、子どもを連れた男が一人、深夜、この坂に差し掛かっていた。この坂さえ登れば、知人の家にたどり着く。もう夜は遅いが、今日中にこの坂を登って、この長旅に決着を付けてしまおう、そのように考えていた。しかし、あたりは墨を流したように真っ暗な上、獣の声も遠くに聞こえる。旅で疲れきっていた男は、少しちゅうちょしたが、頭に浮かぶ不吉な気分を振り払い、急いで登り抜けるため、子どもに背中へとおぶさるように伝えた。
「よいしょっ……と」
子どもをおぶさり、坂に取り掛かる。一歩、一歩。踏みしめるごとに勾配はきつくなる。獣の遠ぼえがさらに近くなる。周囲の木々がざわざわと風に吹かれ、不吉な音を立てる。心細い気持ちを抑え、男は坂をゆっくりと踏みしめていく。そのとき、ふいに横から声が聞こえた。
「子どもを抱えていては難儀だろう。オレがおぶってやるよ」
なんだ、人がいたのか。急な声に男は驚く。しかし、その男の提案にも驚いた。顔が見えない相手に大切な子どもを託せるわけがない。人さらいの可能性だってあるのだ。怪しむ男に、声は、勘違いを正すように優しく言った。
「いやいや、子どもだけをおぶるんじゃない。おまえさんごとおぶってやると言ってるんじゃ」
男はさらに驚く。それほど体は大きくないが、自分だって大人の男だ。自分とさらに子どもまでおぶおうなんてむちゃが過ぎる。どんな大男でも、そんな芸当は不可能だろう。男は信用できっこないと思い、適当な理由をつけて先を急ごうとした。しかし、足が一歩も動かない。旅の疲れがそうさせてしまっているのだ。それを察した声の主は、スッと男の前にかがみ込み、「ヨイショッ」という掛け声とともに男を子どもごと背中におぶさりあげた。
「…………」
生きてる心地もなかった。このままこの大男にさらわれて、どこかにさらわれてしまうのか。せめて子どもだけはどうにかならないだろうか。考えをざわつかせながら、男の背中の感触を確かめる。遠くからよみがえってくる記憶、その感触には、どことなく覚えがあった。
(おとっつぁん、おとっつぁんの背中だ……)
今は亡きおとっつぁんのそれだと気付いた瞬間、疲れが頂点に達し、男は父の背中に居る心持ちで気を失った。
気が付くと、坂の上で寝転んでいた。既に夜は明け、太陽がさんさんと降り注いでいる。男の寝ている傍らには、知人の家があり、子どもは知人の子とともに、朝から元気に遊び回っていた。
男は知人に、昨日の不思議なできごとをみやげ話に聞かせた。知人はしみじみと味わうように聞き入った後、その話を日記に書き留めておいたそうだ。その話がいつしか知れ渡り、皆、その坂を、つかの間だけ童心に帰ることができる坂ということで、童心坂と呼ぶようになった、ということだ。