火曜日の幻想譚 Ⅱ
141.暗君名君
初瀬 忠久(はつせ ただひさ)。戦国期に上州(現在の群馬県)の一角を治めていたこの大名は、稀代の暗君と伝えられている。
彼は1481年(文明13年)に、初瀬 忠頼(ただより)とその正室、宮姫との間に生まれた。幼い頃は利発であったと伝えられ、将来を期待されていた。尊大な寺の僧を、機転でやり込めるといった逸話も残っている。その後、13歳で元服。この頃、坂上合戦に初陣で参加して勝利した。また近隣の大名である大戸氏の三女、佳姫をやはりこの頃正室にしている。
ところが1501年(文亀元年)、忠頼が亡くなり初瀬氏の家督を継ぐと途端に乱行が始まる。定期的に自領内を見回りながら、娘をかどわかし始めたのである。誘拐された自領内の娘たちは、侍女や側室として身辺に置かれていたと言われている。そのため忠久の周囲には、多いときでは数十人もの娘が侍っていたそうだ。
それだけ娘を増やしても、忠久の欲望はとどまるところを知らなかった。毎日のように領地を見て回り、娘がいればすぐさまさらったという。そのひどさは田植え期に娘の手が足りなくなり、そのために数年もの間不作となるほどだった。
だがそんな忠久にも、終わりのときがやってくる。正室の実家である大戸氏が、突如攻め込んできたのである。
若い女に呆けていた忠久は、何の抵抗もできなかった。ただただ逃げ回り、捕まって首を討たれたという。
ここまでが従来の忠久の評価であった。しかし近年研究が進み、今、彼の評価は正反対になりつつある。忠久が領地の娘を集め、身近に置いていたのは事実らしい。だが最近発見された近隣の寺僧の日記からすると、その事情もわからなくもない。
それというのも忠久は、自領の女性を教育するよう指示を出していたというのである。その教育役は、忠久の乳母や母の宮姫、正室の佳姫といった錚々たる面々で、立ち居振る舞いや夫を立てる心得、有事の際の覚悟などを教えていたそうだ。また、娘たちは許可を得れば家にも帰れたことがわかっており、先述のような田植え期に人が足りないなんてこともなかったことが新たに分かっている。
そうして、妻としての修行を積み教養を深めた女性たちは結婚し、次々と家庭から領地の発展に寄与していった。忠久自身もそれを黙って見ていたわけではなく、出来の良い娘には良い嫁ぎ先が見つかるよう骨を折っていたということも、先の僧の日記に書かれている。
またこんな逸話も、新たに見つかっている。
とある貧しい娘がやってきたが、その娘は忠久の好みだった。気に入った忠久が側室にしようとすると、その娘は泣いて拒む。理由を問うと、約束を交わした男がいるという。それは忠久の配下の若武者の一人だった。
話を聞いた忠久は、いくらかの金を包ませて家に返した。
その後想い人と結ばれたその娘の元には、城から様子を尋ねる使いが何度か来たという。そして大戸氏から攻められた際、その娘の夫は恩に報いるためにただ一騎で奮戦し、首級を6つも挙げたのちに果てたそうだ。
そして、奮戦したのはその若武者だけではなかった。忠久が城内で教育した女性を妻に持った者の大半が、大戸氏との戦いで死力を尽くして戦っている。最終的に敗北したとはいえその死力を尽くした戦いは、大戸氏の当主、久義が撤退を考えたほどであったという。
敗北したとはいえ、戦国期にあって女性の教育に力を入れた忠久。その慧眼は、今の時代にもっと評価されても良さそうだ。
なお、実家に攻め滅ぼされた佳姫は、その後落髪して一生を終えた。その際、こんな言葉を残している。
「忠久様は「女さえ立ち行けば全てが立ち行く」と常に言っておられました。初瀬は家こそ滅びましたが、この言葉に間違いはないと私は今でも思っています」