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見殺しの達人と悲惨な末路

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 こうした状況から考えれば「国家という自ら達の生きる場所を蔑ろにした上に同胞を見捨て続けると、見殺しにされる番はいつか必ずあなたにも巡ってくる」という私の意見もあながち嘘や脅しではないと思って頂けるだろうか。
 政治とは本来国体を守り国民の暮らしを豊かにするためのものであり、困っている同胞を助けるためのものである。今の日本人の多くがそうであるように政治へと興味が薄いということは、つまり彼らは我が身を守ろうとするばかりで自分以外の他者を助けることになど殆ど関心が無いということなのだ。
 国家が正しい枠組みを作れば、国民全員に豊かな暮らしをさせるとまではいかずとも、例えば資産や所得の少ない貧困者には住む場所や食べ物などの必要最低限のものを支給や補助し、働く場所がない人には政府が一時的に公務員として雇って仕事を用意してあげるなどをすることで、国内での貧困死を文字通り無くすことが出来るというのに、それをせずに政府や市民が揃って「当人の自己責任」と繰り返し言いながら見殺しにすることをなぜ極悪だと思わないのだろうか。異常を異常と思わないことが異常なことであるように、国家の役割と機能を知る者にとって、それは極めて異常な思考である。
 そうした考えに対して政治家の多くを中心とした自称識者や専門家達は、そんなことをすれば市民の労働意欲が無くなってモラルハザードが起きてしまうなどと言っているが、犯罪を犯したわけでもないのに不運にも酷い貧困へ追いやられ、政府が手を差し伸べさえすれば助けられる人達を見殺しにすることがそんなに高尚な在り方なのだろうか。
 そうした発言を聞けば、倫理観が狂っているのは本来守るべき国民や同胞達を自ら達が殺すことに対して何の罪悪感も抱かず、改めようとすらしない彼らだろうと憤りを覚えてしまう。その人の心の内にたとえ砂粒ほどでもまともな倫理観や道徳が残って入れば、決してそんな惨いだけの言葉は出てこないはずである。
 この世で最も醜い悪があるとすれば、実際は自らが多くの人を殺しているにもかかわらずそれを自覚せず、それが故に何の罪悪感も抱かず、自らのことを善人やまともな人間だと信じ切っている者達の心だろう。世の中がそうした自覚の無い極悪人で埋め尽くされた時、元来において人々を助けるという善を司る国家はその醜悪を抱えきれなくなり、瓦解と滅亡をしていくのだ。
 人々の生きる場所である国家にとっての危機を避けるためには正しい物事の考え方を身に付けることが重要だとすれば、その時にまず肝要なのは、元々人の心とは私益のみに偏っているのではないということである。
 まるで関係のない例のようだが、今も一昔前も変わらず幼い子供の多くが好いているのは、世をおびやかし人々を虐げる悪者へと立ち向かう正義のヒーローや英雄的な存在であり、人助けをするお人好しな魔法使いの女の子である。
 そうした作品の中では今苦しんでいる市民や仲間達を全力で助けようとすることは理由を問うまでもないほどに当たり前のことであり、間違っても彼らに対して「日頃備えをしていなかったから酷い目に遭うのは当然のこと」「自分達だけは儲けを得られるのだから他人である彼らが苦しむことは仕方がない」などという全ての事柄を自己責任として変質させるような言葉や考えは、少なくとも味方の側からは出てこないだろう。
 人々を助けるためにたとえ自らが傷付いてでも必死になって強敵へ挑む者達を見て喜び、自分もいつかそうした存在になりたいのだと憧れを抱く純真さを少なくない人がかつては己の心に抱えていたのだ。
 もし精神の在り方を改めようとするならば、たとえ幼稚や空想的と思われようとも、又は世の中は善悪だけで割り切れるほど単純でなかろうとも、理不尽な危機に晒されて苦しんでいる仲間や同胞達を助けることは決して下らないことではないという誰もが初めは持っていたはずの真っ当な価値観や精神を取り戻すことから始めるべきである。
 そして、自らの良心によって本気で公や誰かを助けようとするからこそ必死に困難へと挑み続けて身につくものこそが本来の知性であり、自らの身を守るためだけに用いたりひけらかしたりする知識などは本来の性質とは掛け離れた単なる雑学の類いに過ぎない。
 そこに住む多くの人々が正しい知性と良心を持つようになった時、国家とは長く安定して栄えるようになるのだ。
 日本国民の各々が、学校教育や社会などにおいて、国家や公という本当に大事な事柄を学ばず他の様々なものを覚えていく内に知らず失ってしまった元々の良心を取り戻し、正しく今起きている現実を見据えた上で危機に晒されている同胞を助けようとしない限り「まわりのみんな」から見殺しにされるという悲惨な現実は、いつか必ずあなたにも訪れることになるだろう。
 己や自らにとっての大事な誰かに惨たらしい災いが降りかかることを厭うならば、決して賢くない我々は正しく自省をし、その上で自らがすべき事柄や目の前の現実と正面から向き合おうとしなければならない。
 そうした時に初めて、現代日本に溢れかえっている「人災」という底無しの泥沼に沈んだ国家は、生き返る希望を得ることに繋がるのだ。

 私は時折、なぜこの世に国家というものが存在するのだろうかと考えることがあります。
 人というものは己という存在を大切だと思って守ろうとしますが、それでも個としてのそれは決して完璧なものなどではありません。
 老いれば自ずと弱って亡くなり、たとえ若くとも病気や事故によって亡くなる人は現代でも多くおります。時代によっては戦争によって亡くなる多くの方や、今でも危険な職務が故に殉ずる方もいらっしゃるでしょう。しかし、人にとって大切なものとは何も己だけとは限りません。世には、己とは異なる存在があります。
 だからこそ、たとえ自分は幸福へと辿り着けなかったとしても、歩む道の途中で惨めに死に絶えたとしても、自らにとっての友や恋人や子供、あるいは決して会うことのないだろう未来の子孫達だけはどうか幸せに生きて欲しいと思い、そうした思いが遙か昔を生きた太古の人々の心の中で広く受け入れられたからこそ、自らが死しても尚残り続ける国家という枠組みは形作られたのだと私は思っています。
 それは単なる私の妄想や思い込みだと思われるかもしれません。しかし、本来国家の根本にあるのは、そうした澄んだ愛情だったのではないでしょうか。だからこそ今にも多くの国が残り、時にその存在が故に争い合っても、多少の矛盾を抱えていてもその中で人々は生きようとし、やはり国を大切なものなのだと思って必死に守ろうとしてきたはずです。
 そして、そうした人として当たり前に持っているはずの正しい心を人々が失い、かつて国を形作った先人達の心の在り方と余りに大きく掛け離れてしまった時、彼らが生きる場所であるはずの国家はぐらつき始めて次第にその形を保てなくなり、敵国による侵略や自然災害など様々な要因があろうとも、結局はその時代を生きる国民達の誤った精神と行いによって自ずと滅亡をしていくのでしょう。