小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

見殺しの達人と悲惨な末路

INDEX|1ページ/3ページ|

次のページ
 

 世の中には「見殺し」という言葉がある。それは直接的に手を掛けるわけでもなければ苦しめるわけでもないが、困っている人を前にしてただ見ていることしかしないことという意味合いを含んでいるはずである。
 しかし、本来助けられるにもかかわらず助けない又は助けようとしないというのは、単にその程度の小悪でしかないのだろうか。
 例えば刺すことによって誰かを殺すことは「刺し殺し」と言う。斬ることによって殺すことは「斬り殺し」と言い、焼くことによって殺すことは「焼き殺し」と言い、殴ることによって殺すことは「殴り殺し」と言う。ならば「見殺し」とは文字通り見ることによって人を殺すこと又は、見ているだけという何もしない行為によって人を殺すことであり、やっていることは他の殺人行為と同様のものであると考えることが言葉として自然だろう。
 そう言うと、例えば「刺し殺し」においては刺す側の人間がいなければ被害者もいないのだから、見るだけの人間がいようといまいと関係なく被害者が存在する「見殺し」とは異なるものだと思う方もいるかもしれないが、ただ見るだけでなく、少しでもまともに助けようとすれば相手は死なずに済んだのだと考えれば、やはり同様のものであると判断することが適当だろう。
 そうした認識の元で考えれば、例えば極端な財政均衡主義に則って行われた九十七年の5%への消費増税と公共投資の削減による激しい失業の増加、及び年間一万人増という自殺者数の増加に対してまともな対策を打たない所か更に二回も消費増税を行い、未だにそうした増税や緊縮財政路線を改めない日本の政治家達や、悪政が敷かれているにもかかわらず彼らを支持や容認している有権者とは文字通りの「国民殺し」や「人殺し」であり、更に言えば何の罪悪感も抱いていないどころか己の非道を自覚すらしていない集団的な「大量殺人鬼」とすらも言えるかもしれない。
 我々日本人は、幼い頃から今まで何気ない顔をしながら一体どれだけの同胞達を見殺しにしてきたのだろうか。「当人の自己責任」などという下らない文言によって社会や周囲から見捨てられて碌に省みられもせず、貧困や苦境に陥って亡くなった彼らの死が戦争における戦死者のように国家や国体の維持に貢献したとは到底思えない。
 現代の日本人とは、その誰もが今まで「自己責任」という言い捨てる側にとってのみ体の良い言葉と考えでもって同胞を見殺し続けてきた「見殺しの達人」である。こと同胞を見殺しにすることにおいては我々ほど手慣れた者達はおらず、その分類には老若男女、あらゆる立場の違い、自覚や罪悪感の有無や強弱などは関わらないだろう。
 その多くは知らず保身欲に染まり「ただひたすらに我が身だけが可愛い」と少なからず内心で思って生き続けてきたはずである。そうして、夥しいほど多く世の中に溢れかえっているそんな誤った在り方や精神によって形成されたものが、国内のどの分野とどの部分を見ても危機と問題しか見当たらず、あらゆるものがそれらに埋め尽くされているという国家として極めて異常な現状だろう。そうでなくては、現在におけるそれに説明などつかないのだ。
 そして、多くの同胞を見殺しにするということは、いつか必ずその番が自分へ回ってくるということである。今までは他者を見殺しにする立場であったはずの自分が、今度は政府や地方行政や同じ日本国民という「まわりのみんな」から逆に見殺しにされてしまうという悲惨な現実と未来が必ずやってくる。
 日本に生きる全ての「見殺しの達人」の末路とは、今まで己が同胞達へとそうしてきたように、自らもまた他者から見殺しにされて息絶えるという何とも無惨なものなのだ。
 そうした者達は、巡り巡っていよいよ自らが見殺しにされる番が回ってきたという死の際になってようやく己がしてきた見殺しという行いの惨さに気付いた所で、今までの自分が他者へそうしてきたように誰が助けてくれるというわけでなく、只々無念や苦しいと思って惨めに息絶えていくのだろう。
 目に見えたとすればまるで怪物か化物のような「見殺しの流れ」は、あらゆる人々がどうやった所で逃げられないように長い年月を経て肥大化したとてつもなく巨大な体と両腕を目一杯に広げて、進む道の先で人々を待ち構えている。人はただ生きているだけでその怪物に捕まることになり、それは己だけでなく妻や子供や友人、恩師や遠い憧れの人も含めた全ての人々がそれに捕らわれた後に嬲り殺されてしまうだろう。
 余りに強く恐ろしいそれから逃れる術はたったの一つだけであり、そこに住む国民の多くが危機に晒されている祖国や同胞を見殺しにしないようにすることだけである。
 例えばコロナ禍で特に危機に晒されている観光や飲食や興業などの業種も他の日本国民の多くがそうであるように、実質的には米国に対する日本国内の多くの市場の売り渡しであるTPPやFTAなどの条約、元々所得が高いわけでもなかったタクシー業界への参入障壁の撤廃と賃金の低下、従業員の雇用を守るために今までは禁止されていた製造業における派遣業の解禁などを始めとして、以前は他の特定業種や労働者が危機に晒されていることへ特に言及も批判もせず、沈黙するという何もしない行いによって容認していたものの、コロナ恐慌に対する政府の愚策によって唐突に自ら達が槍玉に挙げられたというだけに過ぎない。
 勿論、今追いやられる彼らは救われるべき悪政の被害者だろうし、今現在において正しい政策を求めることは当然良い行いではあるが、もしもこうした事態になる以前から何の罪も無い同胞達が悪政によって危機に晒されることはおかしいと思って多くの国民が声を上げることで他業種における国民の生活や雇用の保護を政治に訴えかけていたならば、あるいは悪政を続ける政府や内閣など認めないと不支持を貫いて国民のための真っ当な政治という状況や国民同士が互いを助け合うことが当たり前となっていたとすれば、仮にどこかの業界が危機に晒されても、日頃は関係が浅い人を含む多くの国民が同胞達を守ろうとして団結し、それが世論や内閣への支持や選挙での結果という形でもって政治へと訴えかけられて早期から手厚い補償や国民全員への現金などの給付がされた可能性は高かっただろう。そうすれば、特定の業界だけでなく国力や他の多くの国民の暮らしそのものが広く手厚く守られていたということになる。
 しかし、保身にのみ偏る一般的な国民が持つ冷たい精神性がそれを軒並み潰し、今になって巡ってきた見殺しの流れがこれまで運良く逃れてきた特定の業種を中心に多くの人々へと急接近して彼らの首を万力で絞め上げることになった。
 国家とは人の集まりでもあるがためにそうした国民の生活の危機的状況によって日本の国力は衰え、それを唯一解決出来る政府は放置するどころか、店舗へと十分な補償のない上での自粛の要請という言わば店舗側にとっての自滅の強要をすることで2019年の消費増税で元から弱っていた国内経済は更に没落し、それが波及する国防を中心としたあらゆる分野において危機がより激しいものとなっているのだ。