はなもあらしも ~垂司編~
弓を捨てる事に後悔はなかった。
誰よりも才があった垂司は、幼い頃から周囲の期待を一身に背負っていた。
たくさんの大人達に囲まれ、垂司は日輪の為に最も良いと思われるであろう受け答えを幼いながらに察していた。いつも周りの顔色を窺っていた。
そうして五年も過ぎると、弟の真弓が弓を握るようになった。垂司のような天才肌では無かったが、真面目で着実に実力を付けていく弟を垂司は嬉しく思った。
そうして十三になった頃、垂司は自分が分からなくなった。あるいはそれは遅い自我の芽生えだったのかもしれない。家の為、周りが喜ぶように生きてきた自分と言う存在に疑問が湧いた。
十六の春、十一になった真弓に垂司は尋ねた。
「弓は好きか?」
「はいっ、兄上」
真弓の答えは淀みなかった。垂司は自分にはもうこんなにも真っ直ぐに答える事は出来ないだろうと、そう感じた。
このままいけば垂司は日輪の跡を継ぎ、師範として道場を背負っていく事になる。
弓を心から好きだと言えない自分が――だ。
垂司は美しく育っていた。そして幼い頃より人の顔色を窺って生きてきていた甲斐あって、女の心も手に取るように分かった。
十八にもなると、この辺りで垂司の浮き名を知らぬ者はいないほどになった。
日輪は天才肌ではあるが素行に問題のある長男よりも、秀才であり真面目な二男へと自然に目をむけていった。
それでいい、と垂司は思った。あのままいけば後継者争いだって少なからず発生していただろう。そんなものに真弓やまだ幼い道真を巻き込みたくなどなかった。
そうして弓を捨て自由な佳人として生きてきた。
家も何も言わなかった。あるいは父幸之助は垂司のそんな思いに気付いていたのかもしれない。そしてそれでいて天才でありながら弓を捨てた自分を憎んでもいるのだ、垂司はそう感じている。
家の金を食わずとも垂司に貢ぐ婦人は後をたたない。
これでいいと、いつも垂司は自分に言い聞かせてきた。
これでいいと心から思っていたわけではなく、言い聞かせてきたのだ。
それが今、ともえというかつての自分のように弓を愛している少女によって綻び始めている。
厄介事には目を瞑ればいい。
だがいくら目を閉じても、まぶたに浮かぶともえの姿は消える事が無かった。
作品名:はなもあらしも ~垂司編~ 作家名:有馬音文