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父の肖像

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3.尻に敷かれる



「ほら、あんた! さっさと起きな!」

 隣家ではたいてい、早朝から大声が響き渡る。奥さんが旦那を起こす声だ。

 隣の家の朝は、いつもこの奥さんの怒声で始まる。

 その怒声から10分ぐらい経つと、フライパンで卵やベーコンを焼くジュウジュウという音が聞こえ始める。
 奥さんが旦那のために朝食を作ってくれてるのかって? んなわけない。フライパンを振るっているのは、まだ寝ぼけまなこの旦那のほうだ。

 奥さんは何してるのか、だって? 彼女はドレッサーに向かってお化粧中だ。女性は身だしなみに時間がかかるからね。

 旦那が起きてから40分弱、ようやく朝食がテーブルに並ぶ。しかし、食事中も奥さんの怒声は尽きない。
「目玉焼きは半熟って言ったでしょ!」
「レタスがしなっしなじゃない!」
料理へのダメ出しがまず飛んでくる。
「今日はご飯が良かった」
「コーンフレークはなかったの?」
その次はこういった、も少し早く言っておけば良いんじゃないかということ。
 揚げ句の果てには、容姿のことにまで暴言は及んでいく。
「あんた、今日もしょぼくれた顔してるわね」
「もう少し、髪の毛生やしなさいよ」
といった塩梅だ。

 そうしてやっと、隣家の慌ただしい朝は終わりを告げる。奥さんは出社して、旦那はしばしの休息を得られるんだ。とは言っても、旦那も仕事があるからね。20分もしたら出勤時刻だ。旦那が与えられる自分の時間は、その20分だけ。彼はほとんど自分の時間を取れぬまま、出勤時間を迎えることになるんだ。


 さて、帰ってくるのは旦那のほうが先だ。残業の少ない仕事なのか、うだつが上がらない閑職なのかはわからないけれど。
 旦那は帰ってくると、追い立てられるように夕食の準備に取り掛かる。それだけじゃない、洗濯も始めて、風呂の掃除もして……。
 奥さんが帰ってくる時間はまちまちだ。残業があったり、友人と遊びに行ったり、他にもいろいろな用事があったり。
 だが、奥さんが帰ってからの展開は、いつもそれほど変わらない。やってないことがあれば怒鳴られるし、やってあろうがミスがあれば怒鳴られるし、全部やっていてもなんだかんだで怒鳴られる。そういう日々をお隣は営んでいるんだ。

 休日も、旦那にとっては安息の日じゃあない。部屋の掃除や買い出しその他、彼にはすべきことが山積している。その間奥さんは、やっぱり友人と遊び回っているようだ。
 と、いうわけで隣家の夫婦は、旦那が随分と尻に敷かれているようなんだ。


 で、お前は何でそんなに隣の家に執着してるのかって?

 それは他でもない。ここに引越してきたときに、隣家のこの夫婦に挨拶をしたんだ。いや、まあ、なんというか、そのときこの奥さんに一目惚れしちゃったんだな。

 切れ長でキツめの眼、それを守るように覆っているスクエア型のメガネ。高い鼻、真っ赤で少し大きめの唇からのぞく歯並びのいい真っ白な歯。ゆるい部屋着からのぞく豊満な谷間と、そこから香ってくるふくいくたる香り。ベヨネッタがそのまま3次元になったかのような、ドS系美人なんだ。
 奥さんはこんないい女なのに、旦那のほうと来たら。薄くなった額、まんまるな顔の輪郭、締まりのない顔つきや体つき。
 なんでこんなだらしない男の嫁が、あんなにいい女なんだろう? 疑問に思って日夜観察してみたら、上記のありさまだったというわけだ。

 俺は早速、奥さんを口説こうと思った。あのような妖艶な女性は、俺のような者にこそ相応しい。
 だが、ちょっと待て。その前にあの間抜けな旦那に、宣戦布告をしておこう。それであの男に何ができるわけでもないだろうし、男たるもの正々堂々としなくては。

 というわけで用事をでっち上げて、夕方、奥さんが帰ってくる前に隣家を訪れる。

「こんばんは」
「おや。どうされましたか」
「ええ、田舎から果物が送られてきたので、おすそ分けに」
「それはどうも、ありがとうございます」

「ところで、調子はいかがですか」
「おかげさまで、妻共々元気ですよ」

「そうですか。その奥さんのことなんですが……」
本題に切り出そうとした瞬間だった。

「いやあ、妻はね。本当に私なしじゃ生きていけないんですよ」
「はい?」
「今朝もね、私抜きじゃ食事もろくに作れない。あいつにできるのは、せいぜい早起きぐらいのものです。もっともそれも、早く寝てるからできることなんですがね」
「は、はぁ」
「まあ、生活に関してはあいつは一切何もできませんよ。せいぜい金を稼ぐことぐらいです。もっとも浪費癖もあるので、生活費の大半は私が出してますが」
「そうなんですか。それじゃ、すぐ別の男に取られてしまいそうですね」
ニヤニヤしながら言うと、意外な言葉が飛び出してきた。
「いやいや、それが。ああ見えてあれは私に惚れ抜いているんですよ」
「へ?」
「こないだもね、上司から誘われたけど断ったってベッドで喜んで言ってきましたよ。その前も駅や街で声を掛けられたなんて話を逐一私にしてくるんです」
「は、はぁ」
「で、その度に『でも、あんたなしじゃ生きていけない』ってむしゃぶりついてくるんですよ。はっはっは」
「……」
「おかげで夜も頑張っちゃいまして。昨晩、3ヶ月だって妻から教えてもらいました」
「……それは、おめでとうございます」
予想外の展開にたじたじとなったその瞬間。
「ま、大方あなたも下心で私たちの日常をのぞいていたんでしょうけど、夜は立場が逆なんて話もよくありますから。人のものを取るときはそういうところも見ておいたほうがいいでしょうね」

 未来のパパはそう言うと、ふふっと笑った。


作品名:父の肖像 作家名:六色塔