「さよならを言うために」6~9話(完結)
僕たちはそれから、しばらく会う暇が無かった。僕は仕事がちょうど立て込んでいて、ユリも部署移動の直後だった。ユリは、「覚えること多すぎ!」とSNSのメッセージで悲鳴を上げていた。そんなもんだから、僕は自分の誕生日をユリに伝え忘れていた。そこへ、思わぬ人物から僕のスマートフォンに着信があった。
「もしもし…?」
僕がその電話を取ったのは、“もう冷静になってくれただろうか”という期待があったからだ。電話は、東野からだった。“もう掛かってくることもないだろう”と思って僕は着信拒否リストから外して、そのままになっていたのだ。スマートフォンからメロディが鳴って画面を見たときにはドキッとしたけど、大して抵抗は無かった。東野と会わずに連絡も取らずに居てから、ゆうに八カ月は過ぎていた。
「よお…文ちゃん」
電話の向こうから聴こえてきたのは、幽霊が恨みがましく喋るような声だった。それで僕は“まだ落ち込んでいるんだな”と思って警戒したけど、東野は「話したいことがある」と言って、「会って話がしたい。酒の入らない場所で頼むよ」と言ってきた。東野があまりにも元気が無さそうだったので、僕は東野に店を指定してもらって、後日、東野の家の近所にあるファミレスに行くことにした。
東野はある昼下がり、真っ青な顔色とげっそりこけた頬、前よりもさらに痩せた体で、あちこちシワになったワイシャツとスラックスだけで店の前に現れた。僕は東野の背中を押して手伝ってやるように、二人で店に入った。
席に案内されても僕たちは一言も喋らず、僕は東野が口を切るのを待った。僕が何か聞いたところでそれは東野が打ち明けたい事とは限らないし、話したかったことを妨げるかもしれないと思っていたからだ。ファミレスのフライドポテトはさして手をつけられないままでテーブルの上を陣取り、僕たちはそれを見つめていた。不意に東野は背筋を正し、そして僕に深々と頭を下げた。僕は驚いて少し身を引いてしまう。
「ごめん文ちゃん!俺、あの頃どうかしてたんだ!許してくれ!」
東野が真剣に何かに取り合おうとするなんて、めったに無いことだ。僕はそれでびっくりしたままだったけど、早く東野を安心させないとと思って、「そうでもないさ。それに、よく覚えてないね…僕こそ、あんなことをしてごめん。友達として、良くなかったと思う」と答えた。僕がそう言うと東野は肘をついて両手を握り合わせ、それを眉間に押しつけてしばらく泣いていた。
「そんなことない…!文ちゃんがああしてくれなかったら、俺はもっと悲惨なことになってた…!」
どんな道のりを乗り越えて東野が元に戻ったかはわからなかった。東野はあまり話したがらなかったから。僕は「何があったの?」と聞いたけど、「言ったってくだらねえよ」とつまらなそうに吐き捨てて、それで終わりだった。その後は昔の話を東野が始め、「あいつのイカサマを見破ってやったときのあの顔がよぉ」だの、「文ちゃんは勉強出来たのにグレてたから、俺ぁ不思議だったんだよ」と東野が楽しそうに喋るのに付き合った。
それから僕は東野とまた飲み仲間として遊び歩くようになり、僕はある晩、東野と飲み屋に居たときに、ユリからの電話を受けた。
さびれた小料理屋は安酒とそれから地酒、あとはごく安いつまみがあって、テーブルは油やら酒でべとべとだ。東野は良い気持ちで酔っているようで、僕が電話が鳴っていることに気づいてポケットからスマートフォンを取り出しても、あまり気もつかずにぐいぐいとビールジョッキを煽っていた。
「ああもしもし。あ、ユリちゃん、今ね、ちょっと友達と外に居るんだ。うん、うん、ごめん。じゃあまた、うん。おやすみ」
僕は“そっか、ごめんね”とこちらを気遣って「おやすみ」を言ってくれたユリとちょっとだけ話して、電話を切った。すると、途中からずっとこちらを見ていたのか、東野がニヤニヤと笑っていた。
「なんだい、女か」
そう言ってから東野はビールを飲み干したことに気づいてカウンター奥を振り返り、「すんませーん!燗酒一本ー!」と叫んだ。そしてまたこちらに向くと体をぐっと前に倒し、下から僕を覗き込んで笑う。僕はそれが東野の悪ふざけだと分かっていたけど、ユリのことだけははっきりと言っておきたかった。「彼女とは半端な気持ちではない」と。
「少なくとも。お前が考えてるようなもんじゃないよ」
すると東野は驚いてから笑い、「本気かよ。もう年だろ?」と更に冷やかした。僕はそこで急に物思いに沈みそうになって、酒場の喧騒がぼんやりと淡くなるのが分かった。
「そうだ。しかも相手は二十三歳だ」
自分が自分を嘲笑う表情が僕には外から見えているような気分だった。僕はその後で、「へへっ」と笑った。東野は僕の言った事に驚いて言葉も出なかったようだ。さらにそのことで自分を責めている僕を心配するように、東野の顔はずっと優しく、そして心配そうになった。僕は下を向く。
「…大丈夫なのかよ、そんなんに本気になっちまって」
僕はちょっとだけ顔を上げて、ちらっと覗くように東野を見た。東野はまるで、僕の恋を自分が背負わされているかのように顔色を青くしている。僕はそれに笑って、「全然。多分無理」とだけ言った。
作品名:「さよならを言うために」6~9話(完結) 作家名:桐生甘太郎