「さよならを言うために」6~9話(完結)
それから僕たちは湯船に湯を張るまでの間に、台所で遅い夕食を作った。「急な話だったから、今家にこれしかなくて…」と言い訳をすると、ユリは「ラーメン好きだもん、大丈夫!」と元気に返事をしてくれた。それから二人で肩を並べて袋麺を一緒に茹でて、スープを丼ぶりに溶かし、一緒にすすった。
「うん!これ美味しい!そっち味噌だっけ?ちょっとちょうだい!」
ユリは楽しそうに、美味しそうに、即席めんを食べてくれた。僕はちょっと情けない気分だったけど、せめて彼女が楽しんでくれているならと、ほっとした。
「うふふ、いいよ。醤油もひと口もらえる?」
丼ぶりを交換してひと口だけ食べ合って、にっこりと微笑み合う。幸せだった。本当に幸せだった。他には何も言いたい言葉は無かった。僕の大きなTシャツをユリが着ると袖口がゆったりとだぶついて、彼女はどんぶりの中身に最後まで目を輝かせて、「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせた。わけもなく僕たちは微笑み合い、小さなことで大笑いした。
“ユリは今、僕だけを必要として僕だけを見つめていてくれるのかな。”そう思うと僕の心臓は、今にも死んでしまうかのようにとめどなく高鳴った。
それから僕たちは闇夜の中で、お互いを許し合った。この話は誰にもしたくない。僕だけの秘密にしておきたい。ただ、一つ言うとするなら、“このときが永遠に終わらないで欲しい”と、僕は願っていた。
ユリはそうやってときどき僕の家に来ては、夜を共に過ごした。そのとき僕は、幸福と、それから罪悪感とのどちらもに焦がされながら、それらをいっしょくたにした喜びに癒された。
そしてそうやって二、三度僕の家を訪れてかあ、ユリにとってと僕にとっての、「二人の道」が始まったと思う。ある晩、ユリは服を着てから僕の布団に包まって、ぼんやりと目を虚ろにさせていた。僕はユリが入っている布団の間にテーブルを挟んでユリに向かって、煙草を吸っていた。少し前まで和やかに微笑んでいたユリの目は、だんだんとろりとろりと溶けていき、憂鬱な闇の底を映すような黒色に変わっていった。そして今、彼女は本当の暗闇の中で目を開けているように、まるで何も映していないかのような目をしていた。僕はその移り変わりを見て、ユリが開いた扉の先にある闇の深さ、大きさに圧倒されながらも、“やっと見せてくれるのかな”と思って、ユリの言葉を心待ちにしていた。
「ねえ…私さ…困ってることがあるんだ」
ユリは独り言のようにそう話す。“僕は多分ユリに答えを与えてやることは出来ず、それでも答えてあげられないことを彼女に謝らなきゃいけないんだろうな。”と思っていた。ユリがこの先に何を言ったとしても否定することは許されないし、答えてあげられなかったら僕の方が悪いのだ。多分そうだと僕は思っていた。
「困ってることって?」
僕はラッキーストライクの吸い口に口をつけて吸い込み、薄曇りの空のようになった煙い部屋の中にまた灰色の煙を吐いた。ユリはどこも見ていないし、おそらく僕が目の前に居ることも考えていない。いや、考えているつもりだろうけど、彼女は気づいていない。
「うん…内容はわからない…でもね、ずっと困ってるの…それが怖いの」
そのとき、ふっと僕の中で、雲った部屋の煙が晴れるようなイメージが生まれた。“内容がわからない悩みが怖い”。それは僕も持っている感覚だ。それがユリと同質のものかはわからないけど、僕だって同じ言葉で説明できるものを持っている。でも僕はこの考えをユリと共有することを恐れた。もしそうしてしまったら、僕たちは互いを理解しようとせずに、同一人物を扱うように互いを扱ってしまうのではないか?“無鉄砲なユリなら、そうしてしまってもおかしくはないかもしれない”。
僕がしばらく言葉に惑っていると、ユリは虚ろになっていた目を尖らせて、やっと僕を見た。“ああ、ここからか”と僕は思った。ここから僕たちの、「分かり合えない旅」が始まるのかもしれない。
「文ちゃんってそういうのないの?」
まるでユリはそれが信じられないというように語調に怒りを滲ませながらも、ただちょっとゴキゲンナナメになっただけだった。枕に乗せた頭を持ち上げただけで、布団からはみ出させた手を軽く握っているだけのユリは、もうすぐ二十三歳だと言うのに、十四歳のときに出会ったときと大して変わらず、美しく、あどけない。そんな少女のような彼女が抱えている闇は、拒まれただけでこちらに襲い掛かるだろう。その幼さと純粋さゆえに、彼女は同意以外を受け入れることが出来ないのだ。母親に今日あったことを話すように。
僕はそこまで理解しているだろうと自分で踏んでおきながら、彼女に同意を与えた先が底なしの沼だと分かるから、進むことを「勇気」とは見られなかった。
「うーん、あるけど…どうだろう、ユリちゃんと同じものかはわからないし」
“素直に答えてみたらどうなるだろう”と考えた。考えたはいいが、ユリは飽きたように僕から目を逸らし、「ふうん」と言って、どうやら退いてくれたようだった。“でも、ごまかしや先延ばしはいつまでもは通じないだろうな。”ということは分かっていた。僕は自分がユリに何を求められているのかなんて分からなかったのに、なぜかその答えをもう知っている気がしていた。“そしてそれはとてつもなく大きくて、僕なんかには用意出来ないものだろう。”それだけはすでにはっきりしていた。
僕はある日、食べ物の買い物を近所のスーパーでした。そのスーパーはアパートから歩いて二十分ほどのところにあるけど、僕は値段の安さから、「食料はここ」と決めて週末に通っていた。
もう八時半を回った頃に、えっちらおっちらと坂もない平坦な住宅街を走る。植木屋によって刈り込まれた木や草ぼうぼうになった庭が見え、それは街灯の灯りに照らされて輪郭だけ青白く浮かび上がっていた。生垣に街灯の光が過ぎるのを目で追うと、ときたまそれが瑞々しい椿の葉などによってきらりとナイフのように光る。そしてある角を曲がって国道に出ると、その角に店があった。スーパーの前に自転車を停めて、僕は中に入る。
その日、思わぬ人物に出くわした。依子だ。僕がいつものようにカゴを抱えて袋麺売り場に入ろうと通路を曲がったとき、依子が売り場の向こう側に見える通路を横切るのが見えたのだ。彼女は何かを探しているような目を宙に浮かせていたけど、それが急に僕を見つけて、依子の目は険しく厳しくなった。僕は彼女と過ごした、いや、自分を偽って過ごした日々を瞬間で思い出し、さっと悪寒が走る。
作品名:「さよならを言うために」6~9話(完結) 作家名:桐生甘太郎