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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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「さよならを言うために」6~9話(完結)

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最終話 君は今でも美しい






時々ユリは不安定になり、泣いてばかりになる。それは前から体験していたことだったけど、その日、僕はユリの底を見た。

僕はユリをいつもいつも美味い料理を出す高いお店ばかりには連れて行けない。だからいつもの食事はファミレスで済ませていたけど、ユリは変わらず「美味しい」と言って喜んでいた。そう。彼女は外に居る時は普通なのだ。でも、僕の家に来てしばらく経つと、彼女は泣き出したり怒り出したりしてしまい、時には手が付けられないほど落ち込むことがあった。



何度も見た、ユリのとろりとした虚ろな目、それから子供のように泣き喘ぐ声…。僕はそれに長くは堪えていられず、彼女を早くに寝かせてしまおうとしたこともあった。でもユリは「せめて話を聞いてよ。聞くくらい出来るでしょう?」と泣きながら訴えて来る。どうにも仕方がなくて、僕は何度もそんな事が続き、くたびれてしまっていた。僕だって傷ついていた。

「どうせ私のことなんかなんとも思ってないくせに、同情してくれなくていいよ」

ユリはそう言って、結局いつも僕の愛を信じてはくれなかった。

「そんなはずないだろ!ちゃんと好きだよ!」

僕がそう意気込んで胸を叩いても、彼女は横を向いて立ち上がろうとする。

「何?“ちゃんと”って!私、そんなのわかんない!帰る!」

「待ってよ、今から帰るバスなんかないよ!」

「じゃあ歩いて帰る!」

「落ち着きなさいユリ!明日の朝になったら駅まで送る。その時に帰るんだ。だから、もう寝よう…」

たとえば僕がそんな風に言って、内心では本当に困り果てている時、ユリはそれ以上無理無茶を言ったりはしなかった。彼女はギリギリのスレスレだけを守るために、「その直前までは悲しみを発散させている」。そんな気がした。だから僕もそれにある意味では甘えて、彼女のわがままを聞こうとは思わなかった。その前にも、たくさんわがままは言われていたし。でも僕にはちゃんと分かっていた。「すべてを受け入れる」ことをしない限りは、ユリにとってこの関係は「ゼロ」と同じなのだと。

僕はどんなに言っても、何をしても、いつ何時でも彼女を一番に選んだとしても、「愛されている」と信じてもらえなかった。どうしてなのかは分かっていたから、僕はそれをして彼女を責める事が出来なかった。おそらく、ユリには愛情の受容体のようなものが、無い。子供の頃にもらっていて当然のものがまるで無かった彼女には、愛を理解する事が出来ないのだ。それはどんなに寂しいことだろう。そう思うと僕の心は凍りつき、それから“僕の愛も彼女にとって無意味なのだろうか”と、悲しくなった。



その日、いつものようにファミレスから僕の家に上がり込んだユリは、酷く疲れている様子だった。季節はもう夏だ。世界中に響き渡っているように、窓を閉めても部屋の中に届く蝉の声。ゆるくゆるく首を絞めるような湿り気と、空気の暑さ。それらがじんわりと僕たちの体力を奪っていく。僕の部屋のエアコンは、寿命を終えたのにまだ生き続けさせられている生き物のように、苦しそうに唸りながら、そのくせ何も出来ていなかった。

「ファミレス、長かったから疲れた?」

僕は優しくユリに声を掛ける。ユリは布団に包まり、枕に押しつけた頬をずりずり動かして、やっと僕を見た。その顔は、力なく笑っている。寂しそうに。僕はその時、久しぶりにユリを愛しく思った。

「うん…ちょっと…」

そう言いながらユリは、何も映さなくなってしまった目を元に戻す。ずりずりと、また頬と髪が枕をこすった。横向きに寝転んで前を向いているユリは、おそらく僕の手の届かない所に居る。僕はそんな彼女にうっすらと、「ついていけない」と思っている。

“でも、もし今のユリが思っている願いを聞いてあげられたら、僕は彼女に許してもらえるかもしれない。”僕はふと、そう思って、ユリをもう一度見る。ユリはもう僕を見てはくれなかった。

「ねえ、ユリ…」

返事が返ってくるか不安だった。でも僕は次の言葉を言ってみて、それから考えようと思っていた。ユリはやっぱりじっと黙っていて、それはまるで僕の声が聴こえていないかのようだ。宙に浮くユリの瞳は、泣いていた。

「僕に、何か出来ることはないのかな、君に」

僕がそう言った時も、ユリは身じろぎもしなかった。ぐったりと力を抜いている彼女の体は、まるで今にも、沼に落ちるように布団の中までずぶずぶと沈み込んでいきそうに見えた。もし今のユリにじっと見つめられたら、僕もそこに取り込まれてしまうだろうと思った。それは怖かった。でも、僕だって元から沼の中を落ちて落ちて行く途中を生きていたんだから、きっとどうなっても今と大して変わらないだろう。それなのに、怖い。

僕は、ユリの闇が自分のものよりももっと深く大きく、そして広い事を、肌で感じ取っていた。彼女の作り笑いは僕の前でも変わらない事、そしてどんなに距離が縮み、一つになろうとしてさえ、僕の気持ちが伝わっていない事、彼女が僕といても安心してくれない事…。そして、それらを変えてあげられなかった僕に、彼女が復讐として冷たく当たる事…。これらをすべて司っているのは、「決して開かれない心」だ。

“ユリはおそらく、まだ誰にも心を開いた事が無い。だからこそ、僕と居ても苦しがるし、悲しく感じるんだろう。だから僕に出来る事などあるはずがない。でも、たった一つだけならある。それは、彼女の闇の中に落ちて行く事だ。それが彼女のためになるはずはないし、僕にも何も良い事は起きない。でも、もし彼女の孤独を癒す方法があるなら、自分から望んで彼女の闇に取り込まれ、その中で息絶えればいい。彼女が感じている苦痛を僕も被れば、多分、ユリは安心してくれる。“自分一人で苦しんでいるわけではない”と思ってほっとしてくれる。”僕はそこまで考えて、ぞっとした。“でも、彼女はそれだけは求めないだろう。心を交わすことはしてくれないんだから…。”僕は悲しいようなほっとしたような気持ちだった。たった一つの道を、彼女は選ばない。僕はそれを望むわけではないけど、“君の力になりたい”という気持ちだけは伝えたかったんだ。

その時、ユリがぽそりと囁いた。

「何も誓わないで」

その小さな声は、僕にまた困惑をもたらした。僕は、「何か出来ることはないか」と聞いたのに、彼女はそれに対する返事とは思えない言葉を返してきた。そして僕には、なんとなく感じた雰囲気だけが残った。“私に関わらないで”。多分そういう意味だろうと思う。「なぜ?もういい加減、僕にちょっと心を開いてくれるくらいいいじゃないか!」僕はそう叫びたかった。でも、それをしても何も変わらず、ユリを傷つけるだけだという事は分かっていたから、何も言わなかったけど、もう限界かもしれなかった。