「さよならを言うために」6~9話(完結)
翌朝、僕たちは短い話をした。まだ七時だというのに朝の光はうるさいくらいに部屋中に反射して、外はとっくに暑くなっていた。僕の部屋もだんだんと蒸されていく中、僕はようやく辿り着いた結論を口にしようと思った。
「ユリ」
彼女は窓にもたれて、外を見ていた。そうしながらユリが何を考えているのかは、いまだに分からないままだ。僕は迷った。いや、言いたくなかった。でもそれと同時に、“もう我慢がならない!このままでは死んでしまう!”と、心の中で僕はもがいていた。昨晩の、“ユリの沼”に足を取られたままで。そうやって心には嵐が吹いているというのに、その朝は美しかった。ユリは気だるそうに窓枠に二の腕を任せて頬杖をつき、窓の外を向いている。彼女の頬を風が撫でると、柔らかい髪がふわっと巻き上がった。濡れている大きな目は万華鏡のように幾度も光を変えて、みずみずしい肌は出会った頃と同じように薄桃色に透き通っている。そんなユリを見ていると、とても不思議な気分になった。彼女はいつ死んでもおかしくないほど追い詰められているというのに、今が盛りとばかりに美しいままだ。それで僕は、彼女が燃やしている命の炎があまりに強く、その分だけ彼女の残りの日々が使い捨てられていくような、そんな不安を感じた。
「なあに」
ユリの声は間延びした、ゆったりとしたものだった。僕はじりじりと恐怖が押し寄せるのを感じた。“僕の次の一言ですべてが終わる。それで僕たちは別れ別れだ。でももう仕方ない。僕に出来る事は無い。恋の終わりに一度身を切られたら、解放されるんだ。”そう思った時、僕は安堵した気がする。“この世界に僕たちしか存在しない日も、これで最後だ。”カサカサの自分の唇を一度舌で湿してから、僕は話し始めた。
「僕たち…このままだと、多分、「一緒に死のうか」って言い出すと思う」
ユリは振り向いた。彼女の瞳には驚きと、そして肯定の意志があった。
「そう…だね」
「だから…別れよっか」
こんなに気軽に話せることでは無かった。命を懸けて愛したはずなのに、まるで子供の遊びのように、僕たちの恋は終わった。ユリは悲しそうな顔をしていたけど、大人しく「うん」とだけ一度頷き、僕の部屋から一人で帰った。僕はがらんどうの目をしたままのユリを見送り、玄関の扉を閉めた。
その後僕たちがどうなったかなんて、話しても仕方がない。ユリから何度か連絡があったし、“もう一度一緒になりたい”なんてことも言われたけど、僕はもう戻る気は無かった。もう傷つきたくも苦しみたくもないし、あんな無力感を感じるのも嫌だ。だから僕は電話に出なくなり、僕の留守にユリがポストに入れたらしい手紙も、みんな捨てた。
君は今でも美しいだろう。でも、君が僕に何をしたか、どれだけ僕を拒否したか、それなのに甘えたか、それを僕は覚えていたから、君と別れてしばらくの間は、歪んだ胸の底を痛めずには君を思い出す事が出来なかった。酷く落ち込んだ晩もあった。“もう少し堪えていたら彼女と幸せになれたかもしれないのに”と、自分を責めながら酒を飲んだ事もあった。でも、あれ以上僕に出来ることは無かったんだ。僕だって、今でも孤独から解放されずに、使い古した体をギシギシいわせて街を歩くのだから。“悪かった”とは思っている。でもそれもお互い様だとも思う。僕たちを大人同士として考えるならそうだ。それに、あのまま一緒に居れば、どうせ二人とも死んだだろう。僕たちは二人とも孤独で、その孤独を恋で埋めようとした。でも、ユリと僕は欲しがる気持ち以外は何も持たずに、それを愛だと思い込んでいたから、わがままにお互いを傷つけるだけになってしまったんだ。そんな関係を放っておけば、傷つけ合うのに離れる事の出来ない苦しみから、「もはや常世の幸福に縋るしか無い」という結論を出していただろう。
ある晴れた冬の昼、僕はユリの事をふと、鮮明に思い出した。その時僕は、“昔は「体に神様が住んでいるんじゃないか」ってくらいに元気だったよなあ”と考えていて、そのイメージから、なぜかユリの姿が思い出された。それは笑い転げて元気に喋っている時のユリで、子供のようになんでも素直に話した、恋の初め頃だった。少し寂しくは思ったけど、僕はそれほど傷つかずに、それを思い浮かべる事が出来るようになっていた。“あれから何年経ったかな”と考えても、僕はもう月日を勘定する事さえ出来ず、十年前だったか十五年前だったかも分からなかった。
“ユリ、僕は君ほど好きだった子は居ないんだ。これは本当だよ。本当だったんだ。僕はもう君との愛に苦しめられてはいないけど、失ったわけじゃない。たまにはこうして思い出を手に取って、素晴らしかった時を眺めているんだよ。一生分の恋をね。”
時が過ぎていく中、僕の目の上を、思い出の彼女があははと笑って、悪戯に通り過ぎていった。
おわり
作品名:「さよならを言うために」6~9話(完結) 作家名:桐生甘太郎