湯けむりの幻
湯が揺れた。チャコが居る気配はわかる。
『新一』
「はい」
新一は、その声に返事をしたが、ふと奇妙な感覚を感じた。
いままで、少なくとも今回出会ってから チャコが新一の名を呼んだのを聞いてはいない。しかも、名を敬称をつけずに呼び捨てたのは初めてのことだった。
「チャコ。・・・チャコ?」
新一の背中に触れた手は、湯の中であるのに水などないようにくすぐったく感じた。
「チャコ、驚かすなよ」
湯気が立ち上っているにしても 触れられる距離の相手が霞むなどよっぽどの事。それ以上に輪郭さえ見当たらないのだ。
「チャ・・・。やめてくれよ。チャコ、何処だよ」
温泉が好きとはいえ、奇妙な出来事に新一は湯から飛び出し、脱衣所へと向かった。
ふたつ並んだ脱衣かごのひとつは何も入っていなかった。
「チャコのやつ、混浴が嫌で逃げ帰ったのか?」
半信半疑。それよりも落ち着かない心持ちで新一は 宿泊の部屋へと戻った。
鍵(ルームキー)は、新一のかごにあった。チャコが先に行っても部屋には入れないはず。
辺りを見ても 客室前の廊下を往復しても、チャコの姿は見当たらない。
新一は、心拍の高鳴りを感じながら、鍵を通した。
「チャコ?」
暗い部屋に明かりを点けた。
そこで、新一は、信じられない光景を見た。チャコの荷物がないのだ。
「おいおい。おいおい。何やってんだ。どうなっているんだ・・・ おい・・・」
新一は、部屋を飛び出し フロントへと向かった。
「すいません。ちょっと あのぉ、僕の連れを見ませんでしたか?」
フロントの応対は、知らないというので チェックインの状況を訊いてみた。
チャコは、居たのだ。
新一は、部屋に戻り、用意されたふた揃いの夜具を見て、チャコの存在を納得したが、どうにもわからない状況に 布団に寝転がり天井を見つめた。
眠ったのかも曖昧に時間が過ぎ、外が白々と明けてきた頃、体を起こし隣の布団を見た。
やや盛り上がった布団に気付くと、新一は、勢いよく布団を撥ねた。
「チャ、チャコ」
「ん?おはよう」
「おはよ・・・ 何処に行っていた?」
「なに?」
「いや、なんでもない」
チャコは、布団から起き上がると、荷物から洗面道具を出し洗面所へと行った。
水の流れる音がするのを聞き、新一は、自身が深酒をしたものと信じ込もうとした。