湯けむりの幻
順路は 湯場の匂いに誘われるように新一の足は連れて行く。
男湯、女湯。
それぞれの暖簾がかかる扉。
「ホントに?」
チャコは、軽く手を挙げるとドアの向こうに消えていった。と思いきや、再び暖簾の間に顔を出して 新一に声かけた。
「何時?」
「とりあえずサンセットまで。んんん、18時頃だからぁ、18時10分湯上り予定で」
「はぁい。じゃあ」
湯は、柔らかく運転の疲れなど すぐに癒される。
飛騨川の流れの音が 車の流れの途切れに聞こえる。
陽が傾いた。
春の夕陽もなかなかいいじゃないか。
誰もいない湯舟から体を乗り出し 川面に照らされる夕陽を覗き見る。
「チャコ、観てるかぁ」(聞こえるわけないかぁ)
新一の耳に チャコの声がした気がした。
日没。辺りは、一瞬に暗さに包まれた。
新一は、湯船から上がるとチャコの出てくるのを待つことにした。
「おっ、いい女になってら」
チャコが 暖簾から姿を見せると 間髪入れずに声をかけた。
「もう。そんなことばっかり言ってるんでしょ」
チャコは、新一の女性交友を想像し 指を折々微笑んだ。
「どうだった? 夕陽」
「うん。綺麗だったよ。 誰もいないから 真っ裸で観てた」
「外から見えるぞ」
「え? うそぉ! 勿体ないことしたぁ」
チャコは、自身を抱きしめるように腕を組んだ。
「あ、そうそう 僕の声 聞えた? 返事した?」
「さあ どうだったかなぁ。お部屋行こ。お腹空いちゃったね」
部屋での食事は、飛騨高山の郷土料理の膳。
お運びしてくれた仲居さんの料理の説明は旨さを増しましさせる。
飛騨牛。朴葉味噌。食欲は盛りもり。
それは 新一もチャコも予想以上に満足にさせた。
チャコは、下戸ではないものの 酒には弱い。しかし、此処(下呂市)で下戸は 駄洒落みたいね、と新一の飲みっぷりを見ながらぺろりぺろりとするうち 頬は紅潮し、目はとろりとしていた。
「チャコ」
「ん? おなかいっぱい。美味しかったぁ」
「チャコも美味しそう」
「えぇ?」
新一は、この旅。その予約で ひとつだけこだわりを持って選んだ宿。
『混浴のある宿』
飛騨川や下呂益田川のせせらぎの脇に立ち並ぶ旅館やホテルの数件にそのこだわりは叶った。