湯けむりの幻
宿に着いた。
新一は、フロントと云うには歴史を感じられる木材で造られた受付で予約宿泊の手続きをした。さすがに林業の栄えた地区だと感心しながら その正目の通った一枚板を撫でた。
フロントの女性の説明が終わる頃、暖簾をくぐって和服姿の女性、この旅館の女将がご挨拶に来た。
新一が、人懐こく話し上手に言葉を交わすと その女将はやや素の表情を見せたかのように笑った。
「では、ご案内いたします」
揃いの着物を着た仲居が、新一とチャコを部屋へと案内した。
仲居は、室内や施設利用について説明をすると、配膳までの時間を寛いでくださいと出ていった。
「チャコは どうする?」
「ん?」
「僕は、まずは湯に浸かってこようかな」
「賛成。あ!別だからね」と笑った。
「えぇ、この後に及んでそう来ますかぁ。わかった」
新一は、着ていた服を脱ぎだした。
「ちょっちょっちょっ・・・ あっち向いて」
「やらしいぃ。後ろから見てるの?」
「あ、あ、あ、違う。あっちで着替えてぇ。あ、もう!」
チャコの声より早く脱ぎだした新一に背中を向けた。
「はいはい。もう、着ましたからね」
そろりと振り返るチャコの前には 浴衣を着た新一が立っていた。
「はい。今度はチャコのお着替え」
新一が差し出す浴衣を取り上げると胸元に抱え新一の肩を押した。
「あっち向いてて」
チャコの組んだ腕ごと抱きしめ、「はぁい」と頭をぽんと叩いた。
「もう!油断ならないなぁ」
鼻から抜けるような息を吐くと にんまり微笑んだ。
「じゃあ着替え・・・ ほらぁお部屋から追い出すよ。あっち向いて」
「わかったってば」
新一は、部屋の奥へと行き、窓から景色を眺めた。
「これから 日暮れだ」
「そっ」
「もっと感動してよ。露天に入ったらきっと見られるよ、サンセット」
「そっ」
「あぁ・・・」
「どうしたの?」
着替えを終えたチャコも 窓に近づき、新一の横顔を斜めに見上げた。
「だって こんなに素晴らしい事考えてるのに『別風呂』って酷だよね」
「あ、そっ」
チャコは、クスっと微笑むと新一の浴衣の背中辺りの紐を引っ張った。
「行くよ。鍵(ルームキー)宜しくね」
「あ、待てよ、こら、チョコ待て!」
「くふふ、チョコじゃないから待たないよぉ」
「ちょっと待てとチャコの合わせ技だ」
「言い間違えたくせにぃ」
じゃれ合うわけでも 触れ合うわけでもなく 二人はドアを出た。