「さよならを言うために」1~5話
駅前で待ち合わせて「ハーベスト」で話し込むことに飽きたら、今度はイタリアンバル「海賊」で、美味しいものを食べる。月に二度くらいしかユリには会わなかったけど、僕たちはそうやって関係を保っていた。ときどきユリは悲しそうな、落ち込んだ顔で現れることがあった。そういう日は口数も少なく相槌を打つくらいで、笑いもしなかったけど、僕が何気ないことを喋っているとだんだん元気になってきて、自分も話に参加しようとしてくれた。でも、「ありがとうね、またね」、そう言って帰って行くユリの去り際の顔は、まだ薄暗い影が拭われていなかった。
ある日、ユリから珍しく、朝に電話があった。いつもは僕がまだ眠られないでいる夜の十二時頃なのに。僕は歯磨きを中断して、布団の上で着信を知らせようと叫ぶスマートフォンを手に取るため、走った。ユリからの着信には、気に入りの曲を設定していたので、彼女だとすぐに分かったのだ。そして「通話」をタップして耳に当てる。
「はいはい、どうした?」
電話の向こうからは、いつも冷えた空気を感じる。それはユリがまとう悲しみを思い出すから。でも、多分彼女もそれを感じているだろう。僕から。
「…見送りに来てほしいんだ。引っ越すから」
「えっ…」
僕は駅前に向かう三十分ほどの間で、ずいぶんたくさんのことを考えた。彼女が東京に引っ越すと言う。そして、つい先日彼女は自分で自分を傷つけて、病院に運ばれたのだと言う。僕はそんなことは全然知らなかった。予兆すら感じさせてもらえなかった。彼女が救急搬送されたという一週間前の前日に、僕はユリに会っている。そのとき、ユリは楽しそうに話をしていただけだった。
“どうして自分は何も知らされなかったんだ。もしかして、あのときに僕がユリを拒否したのも、ユリが死のうとしたことを助けたんじゃないだろうか?僕にも周りの人間の一人として責任の一端があるんじゃないだろうか?それなのにユリは全然僕を責めようとなんてしなかった。あの子がそんなになんでもかんでも抱え込んでしまって、このままこの先も苦しんで生きていくのを、僕は止められないのか?そして今日、彼女を見送って、これからは別れ別れになってしまうのか…?”
僕はそんな風に考えて不安と恐怖が募る中、駅前のペンギン像の前に着いた。そこにはユリが、左腕全体に包帯を巻いて立っていた。ユリは僕に右手を振って笑っている。僕はその痛々しい光景に言葉も無くし、立ち止まろうとしてしまいそうだった。でも確かな足取りにしようと努めて歩き、ユリの前に立つ。
「…少し、話でもする?電車、あと三十分はあるから」
「そうだね」
僕たちはそのまま「ハーベスト」に向かった。
その日のユリは初めて会ったときのように、ジーンズとシャツ、それからスニーカーだった。それから、彼女は僕と同じ、ブレンドコーヒーを頼んだ。僕たちが「ハーベスト」で座る席は初めて来たときと変わらず、小さめの四角いテーブルに、二つの椅子が据えられた席だった。
「珍しいね、コーヒーは」
「もうあんまり来なくなるし、マスターの淹れるコーヒー、飲んでおきたかった」
ユリはそう言って笑っている。僕は彼女の左腕を見ないように見ないようにと頑張っていたけど、やっぱりそのとき見つめてしまった。するとユリはすぐにそれに気づいて、僕の前で右手を振ってまた笑う。
「ごめんごめん、気になるよね。でもほら、まだ生きてるし、助かったよ」
ユリはさっきから笑ってばかりだ。それが作り笑いなのはもう明白だった。彼女は、“死のうとしてしまったんだ”と僕がひどく悲しんで傷つくことからかばおうとして、もっとひどい自分の傷を隠し続けている。“もう嫌だ。もうさせたくない。何かないか。何か彼女を止められるものは!”そこで僕ははっと気が付いた。
僕は咄嗟に、自分の長袖シャツの左腕をまくり上げて、黙ってユリに差し出した。ユリは驚いて目を見開き、怯えた表情になった。僕の左腕には、おびただしい数の傷がある。今度言葉を失くすのはユリの方だった。でも僕はすぐに後悔した。とにかく彼女を止めたいと思いつきでそんなことをしてしまったから、“こんなものを見たら彼女がショックを受けるかも”と冷静になる暇もなく、そうしてしまったのだ。でも、一度見せてしまったら、なかったなかったことには出来ない。僕はせめて、驚かせたり怯えさせたりするためじゃなかったんだと、伝えようと思った。
「…僕には、隠さなくても平気だと思うよ」
僕がそう言ってシャツの袖を元に戻す頃には、彼女はテーブルに泣き伏していた。でも、体を震わせて泣いているのにユリは声を立てなかった。“いつもそんなふうにこっそりと泣かなきゃいけなかったんだろうか。”僕はそのことにまた胸を痛め、声の無い涙に自分も泣いてしまいそうになったけど、なんとか正気を保とうとした。ユリが顔を上げるとき、初めて僕は彼女の泣き顔を見た。それは、あの悲しそうで寂しそうな顔の向こう側にあったもののような気がした。ユリは口を開く前に、自分でも直視出来ない苦しみに相対しているように、またごまかし笑いをしながら、横を向いた。
「…お母さんがさ、きつい人なんだ…それに、学校行っても、同じだし…」
ユリが言ったのはそれだけだったけど、僕は大体を見通した。そして、彼女が家で受けている扱いや学校でされていることを、想像するまでもなく、「彼女を死へと追いやるほどの苦痛を与えたもの」と知った。思わず僕はがっくりと項垂れ、涙が込み上げるのを感じた。でも、泣こうとは思わなかった。僕が泣いてしまったら、彼女がまた僕の慰め役になろうとして泣けなくなってしまうんじゃないか。それが怖かった。なんとかいつも通りの自分の表情を想像し、前を向いてユリの頭を撫でる。ユリは僕に頭を撫でられてびっくりしていた。
「ど、どうしたの?」
僕はそのとき、久しぶりに心から笑ったんじゃないかと思う。大切な人を思いやること。それがこんなに、胸が痛むのに優しい気持ちになれることだったのだと、やっと思い出した。でも、僕が長いこと返事を考えていたら、彼女に嘘だと思われてしまいそうで怖かった。だから、急いで心の中から言葉を集めて、その中で一番役に立ちそうなものを選んだ。
「辛かったんだろうね。頑張り過ぎちゃったんだろ?」
僕がなんてことのない口調でそう言うと、ユリはまたぽろりと涙を流し、そのまま、僕に頭を撫でられて泣いていた。僕はその代わりのように笑っていた。
ユリは母親とは離れて、父と生活することになったのだと言う。だから東京に住んでいる父親の家に向かうのだと。それで僕は少し安心した。今度はユリを守ろうとしてくれる人と、ユリは暮らすことになる。ユリは「また連絡するね」と言ったけど、僕の役目はここまでだろうと思っていた。“彼女を送り出してやって、それで終わりだ。”そう思ったとき切なさを感じなかったわけではないし、僕は心底ユリが好きだったからあとになって泣くんだろう。でも、“ユリにとって、辛い時間を過ごしていたときの人間関係とは、すっぱり縁を切った方がいいだろう”、そう思って家に帰った。
作品名:「さよならを言うために」1~5話 作家名:桐生甘太郎