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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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「さよならを言うために」1~5話

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3話 失恋




しばらくはユリからの電話もたまにはあったし、ユリはその電話で「たまには会って話がしたいね」とも言っていた。でも自然にというか、「この間知り合ったばかりですぐに距離が離れた友人」としては当たり前に疎遠になっていき、ある時からぷっつりと音信不通になった。“無理もないことだ”と僕は思って諦めようとしたし、僕自身からユリに電話を掛けることはしなかった。しかし、僕たちはその数年後に再会することになる。だからここには、その間の僕の生活を書いておこう。




僕は当たり前のように毎晩安酒をたっぷり飲んでは家の中を無我夢中で荒らしたり、「海賊」で泥酔して店長に絡んだりした。「ハーベスト」ではビールを大瓶で三本四本空けてしまっては、マスターに子供の守りかのようになだめられていた。でもそんなある日、マスターがどうにも困ったような顔をして、こう言った。

「まったくどうしたもんかねえ。飲みようが前と今じゃ全然違うじゃないの。昔はもう少しは少なかったよね、何かあったのかい?」

マスターは、椅子と壁の間に落っこちて立ち上がれなくなった僕を引っ張り上げようとして、僕がてんで力が入らなかったもんだから一旦諦めたところだった。僕はただへらへらと笑っていた。“だっていい気持ちなんだ。こんなに素晴らしいことはないじゃないか。マスターは心配のし過ぎだ。”僕は頭まで前後不覚に陥ってしまって、そう思っていた。それから、それまで毎日毎分毎秒に至るまで必死に押さえつけていたものを、放り出してしまいたいような気持ちがした。“ええい、喋っちまえ。別にかまわないだろう。”

「なに、ただの失恋ですよ」

僕はそう言って、なんとかかんとか椅子に戻ろうと、椅子の背に片腕を掛ける。マスターはもう片方の手を取って引っ張ってくれた。

「失恋というと、この間までよく来てた彼女かい」

「ええ、まあ」

マスターはユリの容姿や大体の年齢を知っていただろうし、それで僕に少し呆れながらも、“まあもちろんどんな失恋であっても辛いことには変わりはないし”と思ったのだろう、同情するような顔をしてくれた。僕は席に就いて煙草を探し、しばらくして目の前に置いてあったことに気づくと、それに火を点ける。「ハーベスト」にはそのとき誰も居なかったし僕もビールを飲んでいるだけだった。マスターは僕の話を聴いてくれようとしたのか、僕の前の席に座った。そのときに僕は、マスターが座った席にユリが座っていたこと、彼女が僕に微笑みかけてくれていたことを思い出した。

「まあそりゃ失恋になるのが当たり前とはいえ、いい子そうだったからねえ。忘れられるまでは時間が掛かるかもしれないが…」

「そうですね、いい子だった。いい子過ぎるんですよ。こっちに慰めさせてもくれやしない」

僕は何もかもぶちまけるつもりでいた。でもそのとき僕は、ユリが持っていた悲しみをちょっとだけ見せてくれたときのことを思い出した。そうすると僕の心はふっと黙り込んで、そのまま思い出を追いかけ始めて、止まらなくなってしまった。言葉など出てこなかった。マスターは急に黙り込んでしまった僕を見てそれを察したのか、「今晩はもうやめたら?」とだけ言った。




僕はそれから数年、たまにユリのことを思い出しては、“どうしているだろうか、ちゃんと生きてくれているだろうか?”と心配をしたり、指一本触れやしなかったユリに対しての恋心を収めるために酒を飲んだりした。そうでなくても僕は酒浸りではあったけど。

仕事は上手くいかなかった。僕は、寒々しい孤独に心を絞られていっているのだ。そんな状態で仕事に身が入るわけはなかった。だんだんと派遣会社から僕への依頼は減り、それなのに僕が飲む酒の量は大して変わらなかった。そして僕は、一人の女性に出会う。

彼女には、「海賊」で飲んでいるときに出会った。いい女性だった。でも少しだけ寂しそうで、こちらを良く気遣いながら話をしてくれる、誰かを思い出させる面影があった。僕はそれに気づいていたのに、その女性と連絡先を交換して頻繁に会うようになり、男女の仲として交際することにした。

彼女の名前は「奥野依子」といった。でも僕は彼女の名前にも、顔にも、大して興味もなかったんだろう。ただそこに悲しそうで寂しそうな影があって、それが僕のそばで僕の話を聴いていてくれるなら、依子でなくても良かったのだ。僕はその頃の自分がどんなに卑しい身勝手な男だったかをちゃんと知っていながら、依子がたまに寂しがって泣くのを慰めた。

それから僕と依子は僕の家で酒を酌み交わしたりする夜を何度か過ごした。

僕の家は三つの部屋と風呂や洗面所なんかがある、わりあいに広い部屋だった。でも古い団地なので、夏は暑く冬はひどく寒い。玄関を入ったたたきには砂や泥の痕がたくさんついて隅に埃が溜まり、洗面所には歯ブラシが何本も放置されて、風呂はカビだらけだった。玄関の隣にある洗面所と風呂場を横目に過ぎると台所があり、そこを通り抜けると二間の部屋がある。台所は大きな窓で西向きのベランダに出られるようになっていて、花柄のビニールで床が覆われていた。でもそこに食卓はなく、いつもコンロに鍋が放置してあるきりだ。奥の二間の部屋にも窓があり、床はどちらも畳だった。小さな窓しかない部屋の隅には飲み終わった空の酒瓶が押しやられていて、雑誌がちょっと積まれている。昔読んだ本なんかは、生活費の足しにするために売られて跡形もなかった。それから布団が敷かれていたけど、ほとんど干しもしないので埃とカビの臭いが染みついている。もう片方のベランダのある部屋は何にも使っていなかった。タンスが置いてあったけど、僕は服もあまりたくさんは持っていないため、母の遺品のタンスは大して使われずに埃をかぶっていた。

田舎独特の土埃がどこからか入ってきて、畳の上はざらつき、布団はじめっとしていた。依子はある朝、前の晩に着てきた服をまた着てから、寂しくて帰りたくないのか、その布団の上に座り込んでいた。依子はそわそわとして、ときどき首を振ったりため息を吐いては、僕の方をちらちらと見ていた。僕は畳の上に座って窓枠に寄り掛かり、見たくもない外の景色を見ていた。

「ねえ」

話しかけられて僕は振り向いた。依子はそのとき僕の万年床の上に座り込んで足を折り曲げ、不安そうに両手を胸の前で合わせて、じっと僕を見た。それは何か祈るような、頼み込むような目だった。

「私は…あなたにとって、なんなの…?」

多分、僕からいい返事が返ってこないのを知っていながらも、それを諦められなかったんだろう。でももしここでまた嘘を吐いたとしたら、依子は僕のことを許さないんじゃないかという、どこか抜き差しならない感じがした。僕は、“もう本当のことを言おう。そして謝ろう。”そう思い、「本当に好きな子の、代わり」と言った。



依子は一度だけ僕を平手打ちして帰り、その後、僕に依子から電話が掛かってくることはなかった。でも、それで良かったんだ。依子はもう自由だし、僕も自分の心を偽る毎日からは逃れた。初めに僕が招いたことだけど、やめにしなきゃならなかったのは確かだ。