狐鬼 第一章
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河川沿いの遊歩道
然程、褪せる気配のない緑眩しい桜並木
木漏れ日の下、通勤、通学する人達が行き交う
以前と変わらない風景、そして日常
正門前に陣取る
強面の年配教諭に、ぎこちなくも挨拶をしながら校門を潜れば
「片田舎」の出来事が嘘のように思える
若しかしたら「嘘」だったのかも知れない
期待を胸に教室の引き戸を引けば周囲の喧騒を余所に
射し込む日溜まりの中、読書に耽る彼に会える気さえしてきた
そう思うと引き戸の引手に掛ける手が震える
立ち止まり躊躇する、其の肩を叩く
級友に「お早う」と、声を掛けられ慌てて端に避けながら
曖昧に挨拶を交わす、彼女の代わりに引き戸を引き開けた
心の準備が間に合わず大袈裟に息を呑むも当然、彼の姿はない
嘆息なのか
溜息なのか、漏れるが思い直す
居たら居たで困るんだけどね、確実に殺されるから自分
「嘘」ではない現実に項垂れながらも自席迄
辿り着くや否や、背後から伸びる腕に羽交い絞めにされた瞬間
其の最悪な「間」に腰が抜けそうになるも何とか踏み止まる
芳しくも香る、髪の匂いに気付き直ぐ様、名前を呼ぶ
「ち、どり~」
腕を解くも其の場に崩れ落ちそうになる、彼女を支える
ちどりが栗色の目を真ん丸くして笑う
容姿端麗、文武両道
水泳部に所属する期待の新人部員
褐色の肌が似合う彼女事、ちどりは御自慢の栗色の頭髪を
前髪なしのポニーテールにしているが水泳部の宿命なのか
最近は毛先が傷んできている、と嘆いていた
其の毛先が自分の鼻先を掠めて、思わず口元が緩む
「むふふ」
突然、目の前のちどりが意味有りげな含み笑いをした
「え、なに?」
「質問です!」
「はい!」
訳も分からず勢いに任せて二つ返事をする
彼女に、ちどりは満足げに頷く
「ある夏の日の、早朝」
「すずめのママから電話がありました」
「え?」
「ある片田舎の、大学病院から」
「娘さんが救急で当院に搬送されました、との連絡を受けて」
今更だが「ちどりの家に泊まりに行く」
という、両親向けの設定(嘘)をすっかり忘れていた
剰え、口裏を合わせる等
隠蔽工作をお願いする程、自分は狡猾じゃない
「ちどりちゃん!」
「家の子、ちどりちゃん家でお泊りしてる筈よねえ?!」
「悪戯電話かしら?!、そうよねえ?!」
子芝居なのか、母親の口調を大袈裟に真似する
否、実際に大混乱だったのかも知れない
其の時の、様子を想像して
そして此の後の事を想像して青褪める彼女を余所に
右手で電話の受話器を持つ振りをするちどりが是又、大袈裟に驚く
「おば様、落ち着いて!」
「おば様」等、一度も呼んだ事ないだろうに
「ちどりは部活三昧!」
「すずめとは全然、会っていないわ!」
そうして頭を右側に傾げた途端、栗色のポニーテールも揺れた
「お泊りって、ど~ゆ~事?」
白白しく、ゆっくりと顔を背ける彼女を捕まえて
稍、厚みのある魅力的な唇を尖らせ、ちどりが詰め寄る
「ねえ!、如何いう事?!」
「ごめん!」
両手で頭を抱え込み謝罪する
彼女を見下ろす、ちどりが背負っていた
通学鞄から「何か」を取り出すと其の頭に、こつんと当てた
「お見舞い」
素気無く言う、ちどりが差し出した
「何か」は十字掛けの飾紐で包装された、新刊の文庫本
「何で入院した事、内緒だったの?」
「滅茶、水臭いじゃん」
そっちかー
そっちなのかー
其の珊瑚朱色の飾紐を見詰め安堵の溜息を吐く
彼女は素直に受け取る
「有難う、嬉しい」
水泳部に所属する期待の新人部員
部活動で忙しいのは百も承知だ
我が事で心配を掛けるのは忍びないし(結果、そうなったが)
其処に至る経緯を説明するのは困難だ
何故なら、ちどりは「彼」の存在を知っている
ほっと、したのも束の間
彼女の自席、映画の一場面の如く腰掛ける
ちどりが普通に核心を突く
「で、何しに行ったの?」
彼同様、充分「画」になるな
等と目の保養をしていた彼女は言葉も出ない
再度、ちどりが訊ねる
「片田舎に何しに行ったの?」
満面の笑みを向けているが目は笑っていない、気がした
彼の実家だという事は当然、ちどりも気付いている筈
地図を貰った時、「すんごい田舎だね!」と、驚愕していたのだから
「あう、あう」言いながら何とか取り繕うと思うも
結局、其れは嘘でしかなく諦める
親友に嘘を吐く事は出来ない
「たかに会ってきた」
白状した所で此の先を如何、話せばいいのか
皆目、見当が付かない
流石に「其れで?」⇔「殺されかけました (´ε`;) 」とは言えない
だが栗色の目を細める、ちどりが眉尻を下げる
「たかって、誰?」
其れでも、ふふっと笑いながら
「兎に角、其の人に会いに行ったんだね~、うっふっふ~」
「すずめもヤルね?」
小悪魔的な瞬きをする
ちどりを余所に彼女は平常心が保てない
「たかって、誰?」
「たかって、誰?」
「たかって、誰?」
「たかって、誰?」
空っぽの頭の中
其の言葉だけを止め処無く、繰り返す
当然と言えば当然だ
当然と言えば当然の事なのか
戸惑いながらも自席の隣、窓際の一番、後ろの席を見遣る
刹那、授業開始の鐘が頭上から鳴り響く
始業式の、今日に限っては生徒達は講堂へと移動を始める
自席の、机の上に通学鞄を置く
ちどりも教室を後にする級友達に倣い「行こ、行こ」と、彼女を促すが
其の手を引き留めて空席を指差し、訊く
「此処って」
「此処、此の席って、」
夏休み前迄、確かに彼の席だった
転校したとはいえ直ぐには片付ける事無く其のままだった
自分の、突拍子もない質問を受けて
ちどりは不思議そうな顔をするも予想外、違う
当然の答えを口にする
「ずっと空席だね」
「邪魔なら後で片付けちゃう?」
言いながら教室を出て行く
ちどりが消えた、引き戸を眺めたまま彼女は動けずにいた
ちどりは
ちどりは「たか」の事を忘れたの?
抑、ちどりは「たか」との出会いを覚えているの?
自分で、自分の言葉が分からない
忘れるって何?
出会った事を忘れるって、其れは出会ってもいないって事?
「彼の影響でもあり親友のちどりの薦めもあり」
手にした、珊瑚朱色の飾紐で包装された文庫本に目を落とす
記憶の断片は確かに刻まれている
其れならば何時かは思い出す事が出来るのだろうか
其れは何時?
其れは何時迄、待てばいいの?
思わず口を衝く
「私は間違ってない」
「私は間違ってないんだ」
忘れる事は残酷だ
忘れられる事は酷く残酷だ
忘れたくない、と決断した自分は間違っていない
頬を濡らす涙を念入りに拭った後、教室から駆け出る
彼女は先を行く、自分の名前を呼ぶ、ちどりに笑顔で追い付く
窓外の中庭
重なる木木に腰掛ける白狐が其の様子を見ていた
見ていたが何も言えない、何も出来ない
大人しく家で留守番しているのが正解だったか
「暇」「しゃこが煩い」等
詰まらない理由で後を追った事を少なからず後悔する
三眼の痕跡でも見付かれば、と思ったが間違いだった