狐鬼 第一章
事前に母親が用意してくれた
ズック靴を履こうとした彼女はひっそりと顔を歪める
素足の傷は自分で手当て出来たが
痛い事には変わりない
其れでも多少、靴下のお陰で痛みが緩和したのか
用意されたのが、サンダルじゃなくて良かった
と、吐息を吐く
病室迄、挨拶に訪れた
主治医と穏秘学好き看護師に頭を下げる母親に倣い
お礼を述べる自分に向けられる二人の視線が熱い
理由は分かっている
巫女の能力で「でっかいいぬ」の姿を目撃した
看護師は院内でも蝶蝶しい人物らしく自身の悲鳴で駆け付けた
同僚に大袈裟に吹聴した結果だ
穏秘学好き看護師に
「本当に本当に犬?、狐じゃなくて?」と、念を押されるも
頑なに「でっかいいぬ」を主張する看護師を此の二人は信じていない
因みに他の同僚達は「でっかいいぬ」自体、信じていない
盗み見る、窓枠に器用に「お座り」する白狐は
奪還した巫女を再び、奪取された事に嘸や落胆していると思いきや
「何方道、三眼との戦いは避けられない」
と、吐き捨てた
彼が「願い事の無効」を諦めない限り
彼が「神狐の命の珠、巫女の命の珠」を諦めない限り
何処に逃げようと
何処に隠れようと無意味だ
其れでも丸める白狐の背中が何処と無く、悲しげなのは事実だ
時折、悔しさが滲むのも気のせいじゃない筈だ
如何しても、あの幼女の事は聞けなかった
「聞き難い事はさり気無く聞くのが得策だ」
等という持論は塵箱に捨てろ
本当に聞きたい事は本当に聞けない事なんだ
そうして油断した
腰窓から視線を外す
自分と、目と目が搗ち合った主治医が半目で見詰める
其処で自分も素知らぬ振りをすればいいのに
思い切り動揺した、其の顔で察したのか
主治医の隣で「でっかいいぬ」の話題に没頭している
看護師と其れに付き合う母親を残して、腰窓へと足早に近付く
思わず声を上げそうになる
彼女を余所に勢い良く、主治医は窓枠から其の身を乗り出す
既に其処に白狐はいない
本の数秒前、此の開いた腰窓から空に跳んだ
そして、如何やら其の姿を主治医にお披露目した様子だった
甚く、興奮気味に自分を振り返る主治医が
ずり落ちそうになる、ラウンド型の黒縁眼鏡を摘まみ上げながら何度も頷く
頷かれた所で反応のしようがないのだが、取り敢えず愛想笑う
何はともあれ肋骨を死守したお陰で晴れて退院だ